ちくま新書

学力格差を克服するために

8月刊、志水宏吉『学力格差を克服する』の「はじめに」を公開いたします。本書は、著者の学力格差研究の集大成であり、よりよい未来をつくるために、これからの学校、公教育の進むべき道を示唆します。まずは「はじめに」をお読みください。

学力格差と学力保障
 本書のタイトルにある「学力格差の克服」は、ここ20年ほど筆者の研究生活の中心を占めてきたテーマである。還暦を迎えたことをきっかけに、これまでの総まとめをしたいと考えた。これが、本書執筆の直接の動機である。
 学力問題に取り組み始め、しばらくしてから私は『学力を育てる』という本を出版した。それが、2005年のこと。15年を隔てて、この本がある。いずれも、新書という媒体。研究者や大学院生、あるいは本好きの学校教員だけでなく、広く一般の読者にも読んでいただきたいと考えた。そのような書きっぷりにしたつもりである。
 折しもこの本が出版される2020年は、「オリンピックの年」として長く記憶される年になるはずだった。しかしながら、オリンピックは、新型コロナの世界的流行のために1年延期となった。来年(2021年)開催されるかどうかも、この「はじめに」を書いている段階ではよくわからない。
 それはともかくとして、前の東京オリンピックが開催されたのは、1964年のこと。私自身は4歳であった。オリンピックの記憶はない。前回が、高度経済成長の真っ只中にあった「若い日本」を象徴するものであったのに対して、今回の東京オリンピックは、さまざまな意味における「成熟した日本」を世界にアピールするものとなるはずである。
 この間、日本社会は大きな変貌を遂げた。オリンピックにやってくる多くの海外からのお客さんたちは、東京に代表される「ハイパーモダン」と京都に代表される「エキゾチック」がないまぜになった日本の魅力を大いに楽しむことだろう。日本社会の様変わりを形容する言葉はたくさんあるが、本書の観点から言うなら、最も大きな変化は、「平等社会」と呼ばれた社会から「格差社会」と呼ばれるそれへの変化である。ターニングポイントは1990年代。「バブル崩壊」が、その転換を象徴するものである。
 教育の領域で、いわゆる「学力低下論争」が勃発したのが1999年のことであった。それからほどなく、私は自らの「学力」研究をスタートさせることになる。以来、あっという間に20年ほどが経過した。
 本当のことを言うと、この本のタイトルには「学力保障」という言葉を使いたかった。第1章でくわしく述べるように、それは関西を中心とする学校現場で使われてきた用語であり、半世紀ほどにわたる教育実践の蓄積がある。社会経済的にきびしい状況に置かれた子どもたちをふくむ、すべての子どもの基礎学力を下支えすること、これが「学力保障」の考え方の肝である。これを本書の内容的な柱とし、タイトルにもしたいと考えたが、一般には耳慣れない言葉のため、『学力格差を克服する』というタイトルにした。

本書の構成
 本書は、5章からなっている。
 第1章「学力向上vs.学力保障」は、いわば歴史編である。1999年に勃発したとされる「学力低下論争」以降の、日本の学力問題の歴史をたどる。2003年以降、文科省は「確かな学力向上」路線に転じた。それ以降今日まで、日本の学校現場は「学力レジーム」と私が呼ぶものの影響下にあり、教育行政は「学力向上」路線をひた走っているように見える。そうした状況に対置されるのが、関西の「学力保障」路線である。後半では、その考え方および実践の歴史と今日的意義についてふれる。
 第2章「学力をどう捉えるか」では、私自身の学力観について詳しく述べていきたい。その中核となるのが、前掲『学力を育てる』において提出した「学力の樹」モデルである。その後およそ15年間にわたって、その考え方の拡張を図ってきた。学力にかかわる問題群に対しての、私自身の哲学をここで展開するつもりである。
 第3章「学力格差はどうなっているか」では、まず「学力格差」という用語自体について、その意味内容を検討する。「格差とはそもそも何か」「学力格差とはどういう事態を指すのか」といったトピックが扱われる。そののちに、さまざまな調査結果や先行研究にもとづいて、現代日本の子どもたちの学力格差の実態について光を当ててみたい。国際比較・地域間格差・学校間格差・階層間格差という4つの側面について内容を検討する。
 第4章「学力格差をどう克服するか」では、格差を是正・縮小するための取り組みについて紹介していきたい。まず国際的な学力格差是正策の流れをみたあとで、日本の「学力保障」の具体的中身について検討を加える。関西の同和教育・人権教育の伝統のなかで展開・蓄積されてきた学力保障の取り組みの意義や成果を、「効果のある学校」そして「力のある学校」という考え方を用いて紹介する。その後に、個別学校の取り組みを支える教育委員会の役割についても考察しておきたい。
 最後の第5章「公教育システムをどう再構築するか」は、本書のまとめとなる部分である。学力格差の克服はクリアすべき大きな課題であるが、それだけで終わってしまってはいけない。学校は、学力をつける場であるとともに、子どもたちの社会性を育む場でもある。未来の社会を担う次世代を育成するために、これからの学校、そして公教育をどのように再構築していけばよいか。学力格差問題を軸に現代日本の学校システムに切り込み、今後のあるべき公教育の姿を展望する。それが、本書の最終ゴールとなる。

ペアレントクラシーへの移行
 そもそも公教育は、「生まれながらにして人生が定まっている」社会から、「能力と努力によって人生を切り拓いていく」社会への移行のカギとなった社会制度である。「封建社会から近代社会への転換」、教育社会学的用語を使うなら、「アリストクラシー社会からメリトクラシー社会への転換」をもたらしたのが、学校教育システムである。身分や家柄のくびきから人々を解放する役割を果たした公教育システムの歴史的意義はきわめて大きい。
 しかし、今日では、「行きすぎたメリトクラシー」という議論が交わされるようになってきている。個人の能力と努力をキーワードとするメリトクラシーが、資本主義の進化・成熟にともなって変質してきているというのだ。すなわち、今日の先進諸国の社会は、「ペアレントクラシー」とも呼ぶべき社会に移行しているという論調が高まっている。「ペアレントクラシー」とは、家庭が所有する「富」と子に対する親の「願望」によって、子どもたちの将来が大きく左右される社会のことである。
 格差社会化が進行する現代日本社会は、まさにこのペアレントクラシーの相貌を呈するようになってきている。子育て・教育における母親の存在と役割が他の社会と比べても大きいと考えられる日本では、「マザロクラシー」(motherocracy)とも名づけうる事態が進行しているというのが、私自身の見立てである。

教育という希望のために
 アメリカで公教育の危機が叫ばれるようになって久しい。貧困層や移民たちがどんどん公教育の網の目から「落ちこぼされ」ていく一方で、豊かな階層の人々はそのあり方に満足できず、ホームスクーリングを典型とする私教育に「離脱」をはじめている。もはや、そのまとまりを維持することは困難なようにも見受けられる。そうした公教育の「解体」に近い状況が、日本に訪れないという保障はない。学力格差を中心とする教育格差の問題は、ここ20年ほどで大きくクローズアップされるようになってきている。本書は、その深刻な課題を何とか克服したい、という志にもとづいて生み出されたものである。
 教育の力だけでは社会の諸課題を一掃することは、もちろんできない。しかしながら、教育には「若い世代を育てる」という固有の役割があり、経済や政治や他の領域にはできない独自の力を発揮することができる。そこにこそ、希望の光を求めたい。本書は、そのようなオプティミスティックな展望のもとに書かれている。

 

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