スキーの記憶
くどいようだが、オリンピックが嫌いだ。
これほど口を酸っぱくして言いつづけているにもかかわらず、今年もバンクーバーで普通に冬季オリンピックは開催された。
オリンピックは嫌いだが、冬季オリンピックはもっと嫌いだ。
ただでさえオリンピックは、肉体を異常に鍛えた人々が異常な競争心をむき出しにして、異常に高く跳んだり異常に速く泳いだり異常にくるくる回ったりする異常な祭典なのに、そこにもってきて冬季オリンピックはそれを冬にやるのだ。あの寒いことで有名な冬に、外で、しかも雪とか氷とかの上で、わざわざ全身に不自然な道具類を装着して、異常に高く跳んだり異常に速く滑ったり異常にくるくる回ったり異常にごしごしこすったりするのだ。全員気が狂っているとしか思えない。
それはたしかにフィギュアの選手はすごいと思う。地面の上でもあんな風に三回転半ジャンプとかスピンとかはできない。子供のころスケートはやったが、転ばないように氷の上に立っているのがやっとだった。彼らがくるくる回ったり足を上げたりジャンプしたりする、その足元を見ていると、鼻の奥を古びた革の匂いがかすめる。何度も転んでびしゃびしゃになった尻の冷たさ。乾燥室のストーブの灯油の匂い。壁に激突した大人が担架で運ばれながら流していた鼻血の赤。そういうものがいちどきに蘇ってきて、不穏な気持ちになる。
スキーもいろいろ思い出して危険だ。
スキーには、大学のとき一度だけ行った。クラスの女子何人かで行くのだが、欠員が出たので来ないかと誘われた。その人たちは、シーズンになると毎週末繰り出していくようなフリークだった。最初はむろん断った。スキーなんてやったことがないし、道具もない。それでも、大丈夫、道具はお姉さんのお古を貸してあげるし、自分たちが手取り足取り教えてあげるから、と熱心に誘われたので、行くことにした。
リフトで頂上まで運ばれて、さあ教えてもらおうと振り返ったら、みんな一目散に滑っていった後だった。百回ぐらい転びながら下まで降りて、教えてくれるって言ったのに、と抗議すると、「そんなのねえ、誰だって自力で覚えるもんなの!」と一喝された。完全に顔つきが変わっていた。みんな日が暮れるまでに一本でも多く滑りたいのだった。
次の日はさすがに哀れに思ったのか、コーチについてボーゲンや方向の変え方などを習う一日コースに皆で入った。だが私はボーゲンでスピードが出すぎ、方向転換しようとして雪に突っ伏し、隊列を作って滑れば一人だけ百メートルぐらい遅れ、鉄塔に板をひっかけてリフトを緊急停止させた。情けなさに涙が出て、ゴーグルの下のほうに金魚鉢のように溜まった。

それでも三日めになると、曲がりなりにも一人で上から下まで滑って降りて来られるようになった。スキーってひょっとしたら楽しいのかも。そう思いはじめた矢先、コースを大きく外れて新雪の中に倒れこんだ。仰向けになったまま、ずぶずぶと一メートルぐらい沈みこんだ。ストックを突いて立ち上がろうとしたら、ストックはどこまでも深く刺さって抜けなくなった。「おーい」と呼んでみた。誰も来ない。見上げると、自分の形にあいた穴の向こうに空が青かった。静かだった。もう二度とスキーなんかやらない、と心に誓った。
それから二十数年が経ち、学校を卒業し、就職し、会社を辞め、今の仕事に就いたが、本当にあれきり一度もスキーはやっていない。特に後悔はしていない。
ただ、一つだけ今も気にかかっているのは、あのときどうやって新雪の穴から出たのか、記憶がないことだ。誰かが助けに来てくれたのだろうか。それとも自力で脱出したのだろうか。私は本当にあそこから出たのだろうか。今こうしてこれを書いているけれど、本当の私はまだあの雪の中に埋まったままなのではないだろうか。
(「ちくま」2010年5月号、『なんらかの事情』ちくま文庫に収録)