ネにもつタイプ傑作選

ネにもつタイプ・五輪傑作選・4

この期に及んでなお止まる気配のない東京2020オリンピック。しかし、ほぼ無観客も決まり、さしもの五輪も往年のかがやきを失い瀕死の体です。そしていよいよ、長年、オリンピックぎらいを公言してきたキシモトさんが五輪を粉砕しとどめをさすべく立ち上がる!? というわけで、PR誌「ちくま」の連載「ネにもつタイプ」の中から五輪関連のエッセイを選び、ここに謹んで再録いたします。ネにもつタイプ・五輪傑作選、お楽しみいただけると幸いです。

爆心地


 私の度重なる抗議にもかかわらず、今年もまた冬季オリンピックは開催された。
 朝から晩まで勝った負けた勝った負けた勝った負けた、メダルを取ったの取らないの取ったの取らないの取ったの取らないので世の中が埋め尽くされる地獄の何週間かが始まってしまったのだ。
 しつこいようだが、私にはどうしてもあの人たちが正気だとは思えない。
 冬は寒い。ただ屋外に立っているだけで大変につらい。下手をすると死ぬ。そんな生物にとって過酷な環境下にわざわざ重装備で出ていって、わざとこぶをつけた危険な斜面を滑り下りたり、ばかに高い坂を滑降したあげくに宙を跳んだり、ミャーーーなどと叫びながら石を押し出したりといった、ふつうの生物なら決してやらない数々の異常行動をとり、あまつさえそれらに順位までつけて喜んだり悔しがったりするのだ。やるほうもやるほうだが、それを観て同じように喜んだり悔しがったりするほうもするほうだ。
 そんなわけだから、オリンピック開催中の私はなるべく目と耳と口を閉じ息もできるだけ吸わないようにして、オリンピック関係のことを極力見聞きしないようにする。だがそれだけやっても完全に情報を遮断することはできない。
 このあいだうっかりテレビをつけたら、全身タイツを着用した男二人がぴったり上下に折り重なり、仰向けに合体した姿のまま、ものすごい速度で氷のトンネルの中を滑走していた。あれはいったい何だったのだろう。
 しかしまあ、そうは言ってもオリンピックというのはたいていどこか遠いところで開催されるもので、時差などにも守られて、いわば対岸の火事だった。
 だが、ついにその最後の砦【とりで】すら破られる時が来た。何年後かに東京五輪が開催されるという聞き捨てならない噂があるのだ。
 こんな、遠いロシアの聞いたこともないような土地でやっていてさえこれだけ私の生活に侵入してくるのだ。東京で五輪が開催されることになったらどうなるのか。
 テレビラジオ新聞ネットその他あらゆる媒体は一日じゅう一秒の隙間もなく五輪情報を流しつづけるだろう。
 街は五輪に脳を侵されゾンビ化した人々と選手と観客で埋め尽くされるだろう。
 いや、そんな甘いものではあるまい。五輪の爆心地ということになったら、おそらくもう五輪はいたるところに遍在するのにちがいない。

 

 

 たとえば、ふと角を一つ曲がったらもうそこに五輪が待ち構えている。
 地下鉄に乗ったら車両内で五輪。
 会社や学校に着いてみればそこはもう五輪。
 頼んだラーメンのスープの中から五輪がじっとこちらを見つめ返している。
 体重三千グラムの健康で玉のようにかわいらしい五輪を産み落とす。
 蛇口をひねったら五輪がこんこんとあふれ出す。
 五輪は大気中に満ち、呼吸によって体内に取り込まれ内側からじわじわと人体を侵しついにはマタンゴのように五輪人間に変身させてしまう。
 一日じゅうそれらから逃げまわり、夜やっと安らかな眠りにつこうとベッドに入ると、中から血まみれの五輪の生首が出てくる。
 闇夜を切り裂き、私の絶叫が響きわたる。

(「ちくま」2014年4月号、『ひみつのしつもん』筑摩書房に収録)
 

 

2021年7月23日更新

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岸本 佐知子(きしもと さちこ)

岸本 佐知子

翻訳家。訳書にルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』、リディア・デイヴィス『話の終わり』、ジョージ・ソーンダーズ『十二月の十日』、ミランダ・ジュライ『最初の悪い男』、スティーブン・ミルハウザー『エドウィン・マルハウス』、ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』、ショーン・タン『セミ』など多数。編訳書に『変愛小説集』『楽しい夜』『居心地の悪い部屋』ほか、著書に『なんらかの事情』『ひみつのしつもん』ほか。2007年、『ねにもつタイプ』で講談社エッセイ賞を受賞。

クラフト・エヴィング商會(くらふとえう゛ぃんぐしょうかい)

クラフト・エヴィング商會

吉田浩美、吉田篤弘の2人による制作ユニット。著作の他に、装幀デザインを多数手がけ、2001年、講談社出版文化賞・ブックデザイン賞を受賞。著作リスト○クラフト・エヴィング商會・著『どこかにいってしまったものたち』『クラウド・コレクター/雲をつかむような話』『すぐそこの遠い場所』『らくだこぶ書房21世紀古書目録』『ないもの、あります』『テーブルの上のファーブル』(以上、筑摩書房)『じつは、わたくしこういうものです』(平凡社)○クラフト・エヴィング商會プレゼンツ・吉田音・著『Think/夜に猫が身をひそめるところ』『Bolero/世界でいちばん幸せな屋上』(筑摩書房)○クラフト・エヴィング商會プレゼンツ『犬』『猫』(中央公論新社)○吉田浩美・著『a piece of cake ア・ピース・オブ・ケーキ』(筑摩書房)○吉田篤弘・著『フィンガーボウルの話のつづき』『針がとぶ Goodbye Porkpie Hat』(新潮社)『つむじ風食堂の夜』『百鼠』(筑摩書房)。