ちくまプリマー新書

ドーピング、整形、サイボーグ化、感情制御、遺伝子操作……それは悪いことなのか?
『心とからだの倫理学』より「はじめに」を公開

整形で顔を変えてしまってよいのか。能力や性格は薬によって変えることの是非は。変化によってあなたと社会はどうなるの?――心や身体を作り変えたりすることの良し悪しについて、倫理学の観点から考える『心とからだの倫理学』(ちくまプリマー新書)が好評発売中! 現代社会を生きるうえで避けては通れない論点を一望する一冊より、「はじめに」を一挙公開します。

心身に介入するってどういうこと?

 さて、心身への医学的・科学的介入というのは具体的にはどんなことなのでしょうか。スポーツを題材に考えてみましょう。あなたが陸上の一〇〇メートル走の選手だとします。普段のタイムは一三秒ですが、怪我をしてしまったときは、足の痛みのせいで一五秒かかってしまいました。

 このとき、人体への介入には二つのパターンがあります。第一に、怪我を治すための介入を行うことで、一五秒のタイムを一三秒に戻すことです。第二に、あなたの限界を超えた力を引き出すための介入で、一三秒のタイムを一一秒にすることです。前者はマイナスをゼロに戻すもので「治療」と呼ばれるのに対し、後者はゼロをプラスに、プラスをさらなるプラスにするもので「エンハンスメント」と言われます。エンハンスメントという言葉はあまり聞き慣れないかもしれませんが、「増強」「強くすること」という意味の英語です。本書ではさまざまな治療の事例、エンハンスメントの事例、そのどちらとも言えない事例を取り上げていきます。

 実際には治療とエンハンスメントはつながっていて、簡単に切り離せるものではありません。たとえば、スランプで一四秒に落ちていたタイムが薬の力で一二秒になった場合、これは治療か、増強か、微妙なところです。技術そのものを見ても、治療とエンハンスメントは連続していることがほとんどです。たとえば、美容整形の技術はもともと顔の傷を治す医療技術だったものを美容目的に応用したものです。第四章では認知能力を薬で増強して試験を受ける学生の事例が登場しますが、この薬は本来、発達障害の治療のために使われているものです。

 だいたい治療だから良い、増強だから悪い、と単純に言えるものでもないので、とりあえずそんな区別があるということと、エンハンスメントという言葉があるということだけ覚えてもらえればいいと思います。いずれにしても、悪い状態から、普通の状態を経て、良い状態、より良い状態への身体を変化させていく介入が、本書で扱うものの範囲です。

 治療や増強の事例を扱っていくにあたって、もう一つポイントがあります。それは、エンハンスメントは自然な変化ではなく、バイオテクノロジーによる直接的な介入を指すということです。たとえば、一三秒のタイムを一二秒にするために、あなたはさまざまなことをするでしょう。それは筋力トレーニング、無駄のないフォームを作っていくこと、食事の栄養バランスに気を遣うことなど多岐にわたるでしょう。しかし、そういったことは一般にエンハンスメントとは言われません。エンハンスメントは、筋力増強剤や遺伝子操作など、医学や科学の力を使って直接あなたの力を増強するものです。

 ですから、たとえば教室での勉強によって知性を高めることは、たとえそこで用いられる教育法が科学的な知見に基づいたものであってもエンハンスメントではありませんが、薬を使ったり、脳に機械を埋め込んだりして、直接知性を高めることはエンハンスメントと言われます。

 とはいえ、こちらも治療と増強の区別同様、常に明確に区別ができるわけではありません。たとえば、遺伝子操作で栄養が増幅された野菜を食べることがエンハンスメントなのか、そうではないのか、ということは非常に微妙です。したがって、エンハンスメントとそうではないものの間には明確な線があるのではなく、明らかにエンハンスメントである事例とその周囲に無数の微妙な事例があると考えてもらえればと思います。

本書の構成

 本書で扱う題材は第Ⅰ部「身体」、第Ⅱ部「心」、第Ⅲ部「人間」というテーマでまとめてあります。第Ⅰ部の「身体」編では、外見を整えること、運動能力を増強すること、そして身体を機械で置き換えること、を考えていきます。第Ⅱ部の「心」編では、集中力や計算力などの認知能力を高めること、感情や性格を書き換えることを取り上げたあと、心と身体が交錯する場である性別について考えます。最後の第Ⅲ部「人間」編では、遺伝子操作を通じて人間のあらゆる限界を超えること、人間の道徳心を操作することの是非を考えていきます。

 以上を通じて、私たちの心身への介入についてさまざまな角度から考え、私たちにとって身体や心がどういう意味をもっているのかを考える機会にしてもらえればと思います。また、このような話題を取り上げると「個人の勝手でしょ、したい人はすればいいんじゃない」という意見が必ず見られますが、当事者、周囲、社会の三つの視点のことを思い出し、「本当にそうかな」と思いながら読んでほしいと思います。(※2)

 なお、各章には、まずそれぞれの技術がどのような仕方で登場してきたのか、今どのくらいのことができるのかという事実のパートがあります。ついで、そうした事実をもとに、それぞれの介入を倫理的にどう評価するかという議論のパートが続きます。また、議論のパートには考え方のヒントとして、「倫理学の重要な考え方」も差し挟んであります。少し抽象的なものもありますが、どれもとても大事な考え方です。それらもヒントにしながら、事実に基づいて、自分の中でよく議論を行い、最終的に自分自身の意見に到達してもらえればと思います。

※1 このことに関連して、倫理学はしばしば三つの領域に分かれると言われています。現実に何が差別にあたるのかなどを考える応用倫理学の領域。差別はどのような根拠で悪いと言えるのか、何かが悪いと言えるのはどういうときか、などを考える規範倫理学の領域。そもそも悪いとはどういう意味でなぜ悪いことをしてはいけないのか、などを考えるメタ倫理学の領域。この三つは常に綺麗に区別されるというわけではありませんが、本書は基本的には応用倫理学を考えるものです。

※2 エンハンスメントを体系的に扱った書籍としてはレオン・R・カス編著『治療を超えて:バイオテクノロジーと幸福の追求 大統領生命倫理評議会報告書』(青木書店、二〇〇五)が古典です。


 


あなたはどうする? 社会はどうなる?
エンハンスメントから考える。

 

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