ちくま新書

これからも大学入試改革が必ず失敗する理由

準備不足と制度的な欠陥を露呈して、完全実施されなかった大学入学共通テスト。その失敗の理由から、見当違いな意見ばかりまかり通る教育議論に切り込む『入試改革はなぜ狂って見えるか』のまえがきを公開します。

はじめに
 
 流石に、受験生は怒ってよい。
 大学入学共通テストに記述試験を導入すべきだとアピールしていた教育再生実行会議委員による「国立大学入学者の六十%はマークシート入試なので一文字も書かないで合格している」とする主張をある書籍で目にしたとき、あまりの支離滅裂な現状認識に憤りを覚えました。
 細かいデータは後述しますが、一文字も書かずに合格している国立大生は大変に珍しい存在であり、そんなことは各大学の入試問題を眺めれば一目瞭然です。
 だから、この教育再生実行会議委員は記述試験の必要性を主張しておきながら、入試問題を解くどころか、ろくに確認さえしていないのです。私が開業している学習塾の生徒たちは、こんな無責任な行為によって右往左往していたのかと思うと、「受験生は怒ってよい」とでも言いたくなります。
 入試改革は失敗の歴史だと言われますが、それと同時に怒りの歴史でもあります。いや、より正確に言えば、入試改革を含めた教育問題そのものが怒りに満ちています。本番の約一年前に記述試験が取りやめになった今回の改革をはじめ、いじめ問題、ゆとり教育といった世間の関心を集めた教育問題には、怒りがつきまとっているのです。
 そんな怒りは、行動の原動力にもなります。共通テスト中止を求める高校生たちが、四万二千超の署名を集め政策や世論に影響を与えたようにです。彼らの行動の源泉に入試改革に対する怒りがあったことは想像に難くありません。
 しかし、怒りは人の目を狂わせます。あの悪名高いゆとり教育に数多くの批判が寄せられた一方、その中には荒唐無稽なものが多く含まれていたのです。
 そのことを象徴するのが、『分数ができない大学生 ――21世紀の日本が危ない』(東洋経済新報社)という本です。同書に掲載された「トップ校でも2割の学生は分数ができない」とするセンセーショナルな文言が注目を集め、大学生の学力低下は深刻なレベルに達しているため、ゆとり教育なんてとんでもないとする世論形成を後押ししたのです。
 ところが、この耳目を集めるフレーズは大変に誇張されたものでした。出題した五問すべてを正答できた大学生が八割だったため「二割の学生は分数ができない」としたものの、五問のうち一問は分数の問題ではなかったのです。しかも、この一問だけが群を抜いて正答率が低かったうえに、残りの四問における一問あたりの平均正答率は約九七・八パーセント。つまり、「学生に分数の問題を解かせたところ誤答率は二パーセントだった」の方が、ずっと実態に近いと言えます。
 東北学院大学教授で理学博士の神永正博氏が『学力低下は錯覚である』(森北出版)で主張するように、これは何か驚くべき結果なのでしょうか。計算ミスは誰でもするでしょう。もちろん、学生の学力が著しく低下しているとする論にはなりえません。そもそも、学力の低下を論ずるのであれば経年調査をすべきです。
 このように、同書の調査結果には致命的な欠陥があります。それも、専門的な知識がないと知りえないものではなく、誰が見ても明白に分かるものです。
 しかし、どうしてなのか、この実態からほど遠い論は力を持ってしまい、ゆとり教育に対する批判は強まってしまいました。調査結果を冷静に見れば、誰だってすぐにおかしいと分かるはずなのにです。決して少なくない人たちがゆとり教育に怒りを表明しましたが、彼らは冷静さを欠いていたと言わざるを得ないでしょう。
 こうした事実無根の批判は、新たな怒りを生みます。
  ある日突然、私はゆとり教育の第一期生にされてしまいました。自分ではゆとり世代だと思っていなかったのに、会社の先輩に「ゆとり第一期生」だと認知されていたのです。「ゆとり第一期生」というフレーズを面白がった一部の人たちが、一般的に一九八七年生まれからがゆとり世代だとされていたものを、強引に定義を変えたうえで面白おかしく取り上げたのでした。ゆとり教育の目玉の一つであった「総合的な学習」を、私たちの世代は中学三年生で受けていますので、たしかにゆとり教育を受けていないとは言えませんが、私たちからすれば突然の解釈変更でしたし、何よりも事実無根のレッテルを貼られるのは不満でもありました。当時、「ゆとり世代の大卒がはじめて会社にやってくる」としたうえで、ステレオタイプな偏見で彩られた情報が流された結果、私たちの世代はとんだ風評被害にあったわけです。円周率は3で計算したんでしょうといった、お決まりの事実誤認もありました。ちなみにですが、ゆとり世代の定義は曖昧であり、一九六六年生まれの五〇代中盤の方が含まれるケースさえあることも付け加えておきます。
 そして入社してから二年後、また新たな「ゆとり第一期生」がやってきました。もともとあった定義に基づき、二期目のゆとり第一期生という奇妙な存在が誕生したわけです。二年前と同じような偏見に満ちた情報も飛び交いました。私たち周辺の世代は、メディアを賑わすための玩具として機能したことになります。
 もっとも、当時の私の怒りというのは、ゆとり世代というレッテルを貼られたことではなく、ゆとり世代に対する根拠なき学力低下論に向けられていました。『分数ができない大学生』のような、あまりにいい加減な根拠に基づく学力低下論を目にするたびに、(特に数学の)学力が低下しているのは簡単なデータも読めない批判する側ではないかと思っていたのです。
 一方、そんな私自身、やはり怒りで目が狂っていました。ゆとり世代に対する批判に甚だ不当なものが混ざっていたのは事実であるものの、それほど関心のないものに対し、いちいち人間は一次情報を確認しませんので、結果として偏見や紋切り型の考えを持ってしまうのは避けられません。私だって、そんな不正確な情報や認識を幾多も抱えていることでしょうし、これからだってそうです。誤った主張に対する冷静な対応は大切ですが、そうではなく怒りに身を任せて相手を悪だと認識してしまうのは、冷静さを欠いた言葉を発する相手と同じ穴の狢です。
 私のなかで沸き起こった「学力が低下しているのはゆとり世代ではなく、学力低下論を発している側だ」などという感覚は、私が相手をとんでもない人間だと怒りに任せて認識していた証左です。そう、偉そうなことを先述した私自身が、批判されるべき存在だったわけです。
 冒頭で紹介した委員氏にしても、彼が参加した教育再生実行会議で提出された提言では、記述試験の導入については触れられていません。同提言は、改革の目的や方針を決めるフェイズであり、入試改革の具体的な内容までは踏み込んでいないわけです。
 ただ、記述試験導入のPRをするならば、せめて入試問題に目を通して欲しかったです。また、高校生たちが怒りをもって署名活動をしたとして、それは何か悪いことだろうかとも思います。そのように考えてみると、怒りそのものが悪いのではなく、冷静さを著しく欠いてしまうような「間違った怒り方」がよくないのでしょう。
「汝の敵を愛せ」という有名な言葉があります。何て非現実的なフレーズだろうとも思いますが、これは「それくらいの方が相手を正しく認識できる」という含意があるのだそうです。
 少しの冷静さがあれば避けられた事実無根による批判をすれば、またしても新たな怒りを生んでしまうという負の連鎖が生じてしまいます。荒唐無稽な学力低下論に対し、怒りに任せて相手を「学力が低いのはそちらだろう」と私が思ったようにです。それに、妥当な主張をしたいのであれば、事実誤認を誘発する間違った怒り方は得策ではありません。言い換えれば、「汝の敵を愛せ」を心がければ自分の利益になるため、各々が心がけた方が各々にとって得です。
 本書のタイトルは『入試改革はなぜ狂って見えるか』です。実際に改革が狂っていることもあれば、私たちの目が曇っているため、狂って「見える」こともあるはずです。そこで本書では、「実際に狂ってしまう理由」と「狂って見えてしまう理由」を探ることを目的にしたいと思います。

 ここで、各章について概説します。
 第一章と第二章では、受験の現場で生じている問題を列挙します。国語・数学・英語・理科・社会の各教科について具体例を挙げながら説明することで、いかに課題が山積しているかを示すとともに、不十分な大学側の作問体制に比べ受験産業の戦力が充実しているため、課題解決が難しくなっている現状を記していきます。
 入試改革の議論を追っていくと、大学入試の今を把握されていない方がよく目につきました。各々が受験をした経験がありますので、その経験を基に現状確認をせず論じてしまうのでしょう。センター試験どころか共通一次試験を経験していない委員が多くいらっしゃったこともあり、専門的な知見を持った委員との議論がどうにもかみ合わなかったのです。だから、本書の前半戦である第一章と第二章では、入試問題・参考書・攻略法といった具体例をふんだんに取り入れ、データだけではなかなか見えてこない入試の問題点を伝えられるよう注力しました。
 第三章からは後半戦です。これまで見てきたような現場の問題点が放置されてしまう、奇妙な入試改革の謎に迫っていきます。
 ここでその結論を先取りしてしまえば、「教育における宿痾である」と要約できます。宿痾ですから、以前からずっと抱えてきた不治の病のことです。全治は望めないため、今よりもマシにする方法を考える必要があります。
 謎に迫る過程では、日本の教育行政を語るうえでたびたび登場する上意下達というキーワードに焦点を当てます。文字通り、上(国や文部科学省等)から事細かに下(現場)に指示をする状態です。しかし、第一章で記した山積みの問題が現場ではないと解決困難なものであるため、上意下達のシステムでは上手くいきません。
 第四章では、第三章の内容を踏まえたうえで、今回の入試改革がどのように進んでいったのかを具体的に確認していきます。大まかな方向性が示された第四次提言までの教育再生実行会議および、高大接続特別部会と高大接続システム改革会議の議事録をすべて読んでみれば、改革が失敗の道を辿ってしまうパターンが見えてきます。
 第五章では、入試改革によって零れ落ちてしまう生徒たちに焦点を当てます。今回の改革では「多面的な評価」が大変に重視されましたが、こうした評価方法では、当塾にやってくるいじめ被害者である不登校児や、発達障害を抱えた生徒たちは苦境に立たされます。学力以外のあらゆる能力が計測されたうえに、高校生活の様子まで評価対象にされてしまってはお手上げなのです。
 たびたび、日本ではいじめ問題がクローズアップされ世論が過熱します。いじめ加害者に対する厳罰化や道徳教育の必要性を叫ぶ主張は、そのたびに唱えられます。が、いじめ被害者のその後については、驚くほど注目が集まりません。いじめそのものに大変な関心を寄せるのであれば、いじめられ不登校になった生徒たちが再チャレンジできるような入試制度について、もっと議論が盛んになってもよいのではないでしょうか。長年にわたっての関心ごとであるいじめ問題や、昨今において特に注目が集まる発達障害の問題が象徴するように、入試と社会問題は密接につながっているはずです。
 終章は本書のまとめです。第一章から第五章までを簡単に振り返りながら、狂ってしまう理由と狂って「見える」理由の双方について考えてみたいと思います。
 ここで、私についても記しておきます。
 先述したように、私は学習塾を開業しています。当初、高校生には数学だけを教えるつもりでしたが、生徒たちから色々な教科について質問が飛んでくるため、いつの間にか様々な教科を教えるようになっていました。もちろん、一つの科目を何年何十年と指導してきた先生方には到底敵いませんが、幅広く各教科について語ることはできると思っています。
 二〇一七年に拙著『だから、2020年大学入試改革は失敗する』(共栄書房)を上梓して数年が経過しました。案の定、入試改革は混迷を極めています。当塾の生徒と保護者も随分と困惑しました。
 このままでは何度改革を繰り返しても、また同じような道を辿ります。
 そうならないためにも、本書が少しでも役に立てられれば幸いです。