ちくまQブックス

悩みが、自分の世界を広げていく

「ほかの人が問題なくできることにつまずくのはなぜ?」「数学ができないのは私が女だから?」とかとか、生きていれば若くても悩みはつきないものだけれども、今のその悩みに向き合うことに意味がある、と稀代の数学者、一刀斎こと森毅先生が語ります。ちくまQブックス『悩んでなんぼの青春よ』の「第一章 頭がいいとはどういうこと?」からの抜粋です。

頭が不器用?

このごろの入試改革論議で、「よい学生がとれた」のたぐいが言われすぎね。学校ちゅうところは、アホを入れてかしこうするところのはずなのに、かしこいの入れてアホにするんかな。それに人間には持って生まれた素質がきまってる、みたいなへんな才能信仰があるね。かしこいというのは、どういうことかというのもようわからないけど。

 前、新聞の身の上相談をしていたとき、こういうのがあった。「自分で言うのはおかしいけれども、うちの娘はものすごくかしこい。幼稚園のころから、楽しみですねと言われた。ちょっとヒントがあるとすぐにひらめくし、サッサ、サッサとやる。小学校三年生。ところが、成績はもうひとつよくない。世間では、かしこければ成績がいいはずだという。どういうもんでしょう」。

 かしこいというのは、本当は「頭が器用」というほうが、正しいと思う。ぼく自身もわりと器用さはあったほうだけど、器用というのは、ものわかりが早いとか、反応が早いとか、ちょっちょっと憶えるのが得意とか。

 音楽が器用とか、絵が器用っていう子いるでしょう。リズムとるのがうまいとか、メロディーをすぐ憶えるとか。器用なほうが、いちおうは世渡りに得なんじゃないの。たとえばスタジオミュージシャンになるときに、そのほうがいくらか有利かもしれん。だけど、器用な子がいいアーティストになるとはかぎらない。それは当然。不器用なくせに、なんとなくそれなりに味が出て、おもしろいというのもある。

 頭の器用というのも、ちょっと似たような感じがしてる。大学あたりに行くと、頭の器用だったやつっていうのが圧倒的に多いわけ。かしこいというのは、ぜったい自慢にならない。うんと器用なやつは「あいつは器用や」いうてみんなにひやかされる。それでニブいというと自慢になる。大学の教師なんかしてるというのは、かなりかしこいほうだけど、ニブいことを自慢しあうという、奇妙な感じ。たしかに、ニブいので有名な友だちもいる。東大教授で。そいつの専門に近いやつがいうには、なんか新しいことが出てきても、あいつはなかなか納得しよらへん。ところが一年か二年してから、ひどくちゃんとわかる。ニブいので、世界的に有名なのは、アメリカにいるフリードリックスという人で、何いうても話が通じない。これも大数学者だけど、このおじいさんボケたんかなと。ところが、二、三年すると、通じなかったアイディアを、ものすごくうまく使っていい仕事をするというので、世界的に通ってる。

 なんか、ものわかりのいいというのは、やっぱりすべるんでしょうね。理解が表面的になって。ニブいやつは、なんとなくわかり方にコクが出てくるわけ。器用なことのあぶなさというのは、いつでもスッスッとわかるくせがついてるから、わからんままでかかえておくのがヘタになる。どっちみちそれは必要なのね、そのうちわかるわいうてかかえておかなしゃあない。だから、器用だからええとはかぎらんね。

才能とは何?

 それから、大学の中でとくに器用そうなやつに聞いてまわると、小学校や中学校のころ成績が悪かったやつが多い。しかし受験なんかでは、その器用さを生かして、なんとかなったりするんだけど、ふだんは頭が器用なだけに、学校の成績を上げるというようなことは、あほらしくてせえへんわけ。

 だいたい頭の器用な子は関心がいろいろ拡散するのよ。だから学校のこと以外に、ちょっと大人っぽいことなんかにちょっかい出してみたりするというのは、まあ器用やからやりやすいのね、当然。

 器用のよさみたいのもある。不器用なのはやっぱり落ちこみやすいわけ。ほかのやつがスイスイわかるのに、ちょっと遅れたり、それでドジッたり。そうすると、やっぱりこれつらいとこで、不器用やからせめて成績がいいと安心するというようなね。それで友だちがいうたけど、「かしこいくせにええ点とるちゅうのは、どあつかましいでえ」って。かしこかったら、点ぐらい悪うてもええやないのって。

 器用な子はそれでええんやと思うね。成績が悪うて困るかいうたら、もともと根が器用やねんから、ふだんの成績が悪うても入学試験だけ強かったりする──ぼくなんかはそうやったけどね、やっぱり。昔そういう型はようあったよ。毎学期ええ点とって、その上に入学試験もええというように一致せんならんというのはきつい。とくに大学入試というのは、一回きりのイベントやからね。一発あてたらええねん。

 ただ、才能というのもこれまたわからんもんよ。

 若いころは、ペーパーテストではようわからんけど、いろいろおしゃべりすると、だいたい才能がわかると信じてた。なんか反応が早かったり、ものわかりがよかったり、ちゃんとこっちに受け答えしてくれたり。こいつはええなあと思うたわけ。そういうのはいわゆる頭が器用な子ね。もちろんそれも悪くない。若いときから花を咲さ かせるという感じ。ところがずっと見てると、花は咲かせるにしても、まあそんなもんよというやつがおる。

 いっぽう、あいつ大学院に行って研究者になるいうとるけど、向かへんのとちがうか、なんかドジやしなあっていうやつが、意外に十年ぐらいするとパッと大輪の花を咲かせることがある。だから、十年たたんと才能わからへんという感じ。ただしこれも、実はつらいところがあって、十年たてばかならず花がひらくとはかぎらない。それから、二十年ひらかないと、まずひらかない。しかし二年や三年ではわからない。才能というものが決まってて、それではじめからわかってるとかいうのは、うそ。人間変わるしね。

なぜ学歴は重視されるか

 最近もっぱらとなえてるのが「実体が空洞化した場合は、幻想が肥大化する」という定理。これはいろんなところに使える。いま、先はどうなるかわからん、というふうに、不安定になっているでしょう。流動性がふえてる。そうすると、かならず精神的安定を求めるために幻想を対置するのね。

 単純な例でいうと、臨教審が学歴の価値は実質的には少なくなって、心理的なものとして強まってると書いて、ものすごくたたかれたでしょう。だけどあれは、そうにきまっとるんや、論理的には。だいたい昔にくらべたらいま大学出るやついっぱいおるからね。特権というのは、少数やから得するわけ。それで、これだけ大学生が多いから、「大学出てなんぼのもんや」ということになるにきまっとるわけ。じゃあ東大出たらええかといったって、東大や京大いうたって、昔にくらべたら一ケタふえてるからね。だから少数特権ということは、どう考えてもあるはずない(※編集部注・臨時教育審議会の略。一九八四年に教育改革を目的に設置された総理大臣の諮問機関)

 ちなみに、東大出たために損する人がいるという話あるでしょう。知らん? ひとつは、しょうもない話だけど、「おれは東大出たのにこんな職場じゃ気に入らん」とか、「こんなかみさんじゃ気に入らん」とか、一生東大が後ろにくっついて不幸な一生をおくるというケースがあるわけ。そんなやつは、だいたい東大出る資格ないけどね。そんな東大にこだわるようなやつは、東大入ったら不幸のもとになるから、そうならん人だけが東大へ入ってほしいと思うけど。

 もうひとつは、そりゃ東大出たってドジすることあるでしょう。それでいままでのウラミがあるだけに、あれでも東大出てるのよといわれて、いじめられっ子になるタイプ。まあ、それはさておいて。

 昔にくらべると、新しい知識がどんどんふえてるでしょう。一番単純なのは技術畑でね。昔から、一般教育はムダやてよういいよる。おれは一般教育の教師やからいうけど、あれはムダよ。ほんまにムダ。しかし、専門教育はもっとムダ。だって専門教育は、十年もしたら変わっちゃうからね。だいたい大学というのはムダなんや。昔やと、さすがは帝大出た方で、学識がありまして、とかいうような感じで、長持ちしたんよ。学校で教わったことというのはこのごろ長持ちしない。だからどれだけ新しく文化を獲得する能力があるかのほうが問題で、大学のときにどれだけ獲得したかは、たいして役に立たない。

 学校以外から得る文化情報というのがものすごくふえてる。いい本はいくらもある。たとえば筑摩書房の教科書だけに頼るよりは、筑摩書房から出るいろんな本を読んだほうがかしこうなれるで。本を買わんでもラジオかテレビ聴きいたって、けっこういいもんあるしね。そしたら、学校の実質的な価値というのはへってるよね。それに反比例して心理的な価値は明らかにものすごく重くなってる。いまどんどん。学校は人生にとって決定的みたいに思われてるわけ。

 これは自然なことやと思うね。さっきの定理で、実質が空洞化すると、幻想に頼ってバランスとろうと思うんよ。先のほうがいろいろわからんと心配やから。

 つまりたとえば「人間の一生なんて学歴よりは学校を出てからできまるんや」といわれると、不確定な部分が大部分ということになるでしょう。そうすると、せまい、確定した部分をものすごく重んじて、精神的なバランスをとる。ぼくは学歴問題の構造、学校が非常に重んじられる構造というのは、そういう種類のもんやと思う。