
私は彼女が書いた文章を読み、彼女が、彼女たちが戦ってきた軌跡をなぞろうとする。
ヴァージニア・ウルフ。
二十世紀モダニズム文学の旗手。
フェミニズムの文脈で、あるいはバイセクシュアルであったことから語られることもあるかもしれない。
いずれにしても私にとっての彼女は、この世界を生きぬくための指針である。
「ダロウェイ夫人」をはじめて読んだときの深い共感と、世界をこんな風に捉えてもいいんだとようやく肯定されたように思えたことが、私の心の支えだ。
絶望しそうになるたびに、彼女を想う。
一九世紀末のイギリス、ロンドン、ハイドパークゲート、文学に造詣の深い父と母のもとに彼女は生まれた。夏はコーンウォル州セント・アイヴスのサマーハウスで幼少時代を過ごす。
両親の死後、ハイドパークゲートからブルームズベリーに引っ越した彼女たちの家には、知識人や芸術家たちが集まり「ブルームズベリー・グループ」と呼ばれるようになる。姉のヴァネッサは画家で、兄のトビーは作家、弟のエイドリアンは精神分析家であった。
彼女はそのなかで出会った批評家のレナード・ウルフと結婚。
夫とともに出版社「ホガース・プレス」をつくりあげ、T・S・エリオットの詩集などを出版。彼女自らの著作「ダロウェイ夫人」「灯台へ」「オーランドー」「波」「フラッシュ」「幕間」なども刊行し、高く評価された。
彼女が自ら命を断つのは59歳。
長年、神経衰弱と躁鬱に悩まされていたという。
私は彼女がその死の直前に書き記した日記を読む。何度も読む。
1941年3月8日日曜日の日記。
いや、私は内省はすまいと思う。ヘンリー・ジェームズの文句を思う。たえず観察せよ。老齢の到来を観察せよ。どん欲を観察せよ。私自身の落胆を利用しようと強く思う。私の旗をはためかせながら倒れたい。これはどうも内省にちかいようだ。(中略)何かしごとをしていることが大切だ。そして今、いくらかのよろこびをもって、七時だということに気がつく。食事の用意をしなければならない。たらとソーセージの肉。このことを書くことによってソーセージやたらに対してある種の支配力を手に入れることはほんとうだと思う。(「ある作家の日記」)
戦争はすでに始まり、ロンドンは焼けていて、彼女もまた落とされた爆弾で死にかけていた。彼女は命拾いしたことを喜び、それを日記に書き記してさえいる。
なのに、それなのに、遺書を残して彼女は近くのウーズ川に向かう。ポケットの中に石をたくさん詰め込んで。
私はかつて母と一緒にウーズ川を訪れた。
イギリス、イースト・サセックス州ルーイス。
川は、彼女と夫のレナードが暮らした「モンクス・ハウス」から歩いて数分の場所にある。
母はまだ学生だった頃、彼女の本を夢中で読んだんだ、と私に教えてくれた。でも、ようやく自分だけの部屋を持てたのは、パパが死んでからはじめてだったよね、とも。
私がその川を見たとき、水位は驚くほど低くて、石ばかりが見えた。
海の潮が逆流して、水位が上がることがあると、犬を連れて散歩していた近くの人が教えてくれた。
「モンクス・ハウス」には大勢の観光客が訪れていた。
ロンドンへ戻ると、ブルームズベリーの彼女の家のすぐ向かいには、彼女の銅像が建っていた。
彼女が書いた本は翻訳しなおされ、読みつがれる。
「自分だけの部屋」は九〇年以上の年月を経た今もなお、切実さをもって引用され続けている。それは哀しくもある。
しかし今、私のまわりに広がるこの世界をみまわしたとき、彼女が生きた時代よりも私は、少なくとも私自身はずっと生きやすい時代を生きている。それは私の母が、母たちが、上の世代のひとりひとりが、この遥か遠くの日本の地でも、その小脇に彼女の本を携えてそれぞれの場所で、ときには仕事場で、あるいは家で、小さな戦いを繰り広げてきてくれたからなんだ、と私はこの頃、よく考える。
私はいま、小さな子どもを育てながら、それでも自分だけの部屋をなんとか守り続けようと躍起になっている。
時には疲れるし、時には迷う、年を取ることが怖くもなるし、このさき何も変わらなかったり、むしろ悪いことになったらどうしようと不安に襲われることもある。
けれど、私は彼女の本を何度もめくり、彼女の言葉をなぞりながら想像してみる。
彼女が、彼女たちが、戦う必要さえなくなる日のことを。
川はときに深く流れが早くなるけれど、ときに驚くほど浅くもなる。
引用文献
「ある作家の日記」ヴァージニア・ウルフ・コレクション 神谷美恵子訳 みすず書房