富野由悠季論

〈4〉演出・脚本デビュー作で描いたもの――出発点としての『鉄腕アトム』

富野由悠季とはどんなアニメーション監督か。「演出の技」と「戯作者としての姿勢」の二つの切り口から迫る徹底評論! 書籍化にさきがけて本論の一部を連載します。 今回からはシリーズ「出発点としての『鉄腕アトム』」。初演出作で何を描き、そこにはどんな試行錯誤があったのか。演出家としての原点を探る。 (バナーデザイン:山田和寛(nipponia))

 

 富野由悠季は、どのようにして演出家としてのスタイルを確立したのか。

 例えば自伝『だから僕は…』に収録された高校時代の短編小説「猫」や、大学時代に執筆した脚本「小石」を読んでもそこに「富野らしさ」を見つけることは可能だろう。あるいははもっと遡って、中学校時代に描かれた架空のイラストの中に、架空の小田原飛行場を描いた俯瞰図があることを取り上げ、飛行機単体だけでなく運用のための仕組みにまで想像力が及んでいることと、『機動戦士ガンダム』におけるリアルなメカ描写を結びつけてもいいかもしれない。

 しかし、子供の夢想や学生時代の習作と、職業人として創作に取り組むことの間には大きな溝がある。ここからはまず、演出家デビュー作となった『鉄腕アトム』にフォーカスする。中でも脚本・演出をともに担当した作品に注目することで、富野が演出家、そして戯作者としての第一歩をどのように踏み出したかを具体的に確認したい。

『鉄腕アトム』で富野が担当したエピソードは全25本。内訳をみると、脚本のみが1本、他人の脚本を演出したものが9本、自分で脚本・演出を担当したものが15本(ただしうち3本は再編集もの)となっている。なお15本のうち1本(第139話「盗まれたアトムの巻」)はフィルムが紛失しており、現在は見ることができない。ここではこの脚本・演出を担当した15本に注目する。

脚本・演出デビュー作「ロボット ヒューチャーの巻」

 富野は1964年に虫プロダクションに入社した。当初は制作進行として『アトム』に関わっていたが、どうせ働くならよりクリエイティブなポジションで働きたいという意思を持っていた。また絵コンテを描けば、給料とは別に手当がつくことも魅力だったという。このように演出することと生活することがダイレクトに繫がっている点は、いかにも富野らしい。こうして富野は入社1年目にして演出になることを考え始める。

 1964年の虫プロダクションは、新たにスタートする『ジャングル大帝』や『W3』に主力スタッフを集中させていた。前年放送を開始し話題となった『アトム』は依然スタジオの看板作品ではあったが、制作体制は外注の作画スタジオ中心となっていた。そこに加え、放送2年目に入ったことで、アニメ化可能な原作のエピソードはもう残り少なく、オリジナル脚本が増えていた。そこに富野のような新人が活躍しようとする余地があった。

 演出デビューに先立って、富野は、社内で行われた脚本公募に応募している。しかし公募された脚本は富野以外に2本しかなく「若手の熱意がない、と断じられた」(※)という。そこで提出した富野の脚本が特に誰かの目にとまったり、作品作りの参考に生かされることもなかった。

 富野はそのまま諦めることはせず、スケジュールを確認して、数カ月後には脚本が足りなくなるであろうと判断。改めて「やってやろう」(※)と考え、公募に提出したきりだった脚本のストーリーを思い出しつつ、仕事の合間を見て、絵コンテを描いた。この絵コンテは前半が完成したところで手塚のチェックを受け、ゴーサインをもらうことができた。このエピソードが第96話「ロボット ヒューチャーの巻」であり、これが富野の演出デビューとなった。富野は、このチェックを受けたすぐ後に、手塚から「演出部に入らないか」といわれたと回想している(※)。

「私はあなたと戦うぞ!」――運命に抗うロボット

 「ロボット ヒューチャーの巻」は、正確な未来予測ができるロボット・ヒューチャーと、彼を犯罪のために作り出したアクタ博士の物語である。ロボットであるヒューチャーは、アクタ博士が犯罪を行うと知りながらも、裏切ることはできない。しかも彼は自らの能力で、自分がアクタ博士の手にかかって死ぬことを知っている。

 最後にヒューチャーはアクタ博士と戦うことを決意する。

アクタ博士、私は初めからこうなること〔引用者注:アクタ博士が火星銀行の金塊を強奪すること〕はわかっていた。しかしこれまで、止めることもできなかった。未来は変えられないと思ったからだ。でも、もう我慢がならない。私はあなたと戦うぞ!

 こういってヒューチャーはアクタ博士に挑む。アクタ博士の宇宙船から発射される光線を避けながら、共闘するアトムは、ヒューチャーに「あなたは死ぬつもりなんですね」と問いかける。ヒューチャーは「君にはわからないだろうが、アクタ博士に悪事をやめさせるにはこれしかないんだ」と応える。

 ここでヒューチャーは、「予測された自分の死」という決定論を生きるのではなく、自由意志でもって、身を挺してでもアクタ博士を止めるという人生を選択しているのである。

 しかしヒューチャーは光線で破壊される。それを見たアクタ博士が驚いた隙をつき、アトムは金塊の入ったコンテナを破壊する。ラストシーンは、ヒューチャーの「私は本当に人間の役に立つのでしょうか」という台詞が宇宙をバックに流れて締めくくられる。

 本作を構成する要素は大きく三つある。まずひとつめはコンピューター(ロボット)による未来予測という「SFギミック」。そして二つ目は『アトム』の中で繰り返し描かれる「人間とロボットの(非対称な)関係性」。そして三つ目が「エンターテインメントとしてのアクション(バトル)」である。この三つの要素は、その時点で富野が‟『アトム』らしい”と考えていた要素でもあろう。この後、富野が手掛けたオリジナル脚本をみると、以下の三つのエピソードでこの三つの要素が取り入れられている。

ロボットが現実を映し出す

 第133話「十年目の復讐の巻」は、記憶を失い老女に育てられていた捨て子ロボット・リボリューがゲストキャラクター。

 リボリューは嵐の夜に、過去の記憶を取り戻す。彼は実は刑務所に囚われたマルス博士が作ったロボットだったのだ。記憶を取り戻したリボリューはマルス博士を刑務所から脱獄させる。実は記憶が蘇ったのは、マルス博士がリボリューの記憶装置にタイムスイッチを組み込んでいたためだった。マルス博士の狙いは、リボリューを人工衛星にある母親=コンピューターに組み込み、地球征服の方法などを聞き出すことだった。一旦はコンピューターと合体したリボリューだったが、「ママは悪いことをしようとしている」とコンピューターから飛び出す。リボリューを求め暴走するコンピューター。しかし、最終的に「ワタシのような機械はないほうがいいんです。さあ逃げて」とマルスを逃し自爆してしまう。マルス博士はこれを「ヒステリー」と説明する。

 本作は「自分を生んだ‟父親”の命令」「同一化を迫る‟母親”の暴走」といった家族に宿る普遍的なテーマを、ロボットに置き換えて表現しているところが興味深い。

 第156話「ロボット市長の巻」は、ある事件をきっかけに、「人間から尊敬される存在」として作り出されたロボット市長レイモンが登場する。そのためレイモンが治める町は、ロボットが人間よりも尊敬されていた。ロボットが見下されがちな『アトム』の世界観において、これはかなり特殊な状況だ。しかし、そのレイモンは異常をきたし始めていた。レイモンを作ったアイザック博士は、その危険を説くが、レイモンによって無期懲役となってしまう。レイモンの暴走は止まらない。事態は市長派と反市長派との対立にまで発展し、最終的にレイモンはアトムに倒される。

 本作のラストは、主題歌のインストゥルメンタルが軽快に流れるのとは裏腹に、口をへの字に結んだアトムの深刻な表情のアップで締めくくられる。それは異常を認めなかったレイモンに対する、怒りと悲しみが入り混じった顔だ。

 第173話「ロボッティの巻」は、外国からやってきた超小型ロボット・ロボッティが科学省に保護されるところから始まる。科学省で暮らし始めたロボッティは、そこで自らの仲間を製造し、ついには科学省を占拠してしまう。さらに人間と対立したロボッティは核兵器までも完成させてしまう。ポイントは、この過程でロボッティに悪意があるようには描かれていないというところだ。ロボッティたちはあくまでもひとつの権利主張として、科学省を占拠し、人間と対立するのである。領土と権利の問題を、超小型ロボットという仕掛けを使うことで、寓話的に描いたエピソードだ。

 「ロボットヒューチャーの巻」は決定論と自由意志。「十年目の復讐の巻」は家族論。「ロボット市長の巻」は狂気の自覚。「ロボッティの巻」は領土問題。この4作はロボットというモチーフを、現実にある様々な問題を映し出すものとして扱い、それによりロボットという存在もまた際立つ内容に仕上げている。 (続く)

 

 

【参考文献】
※ 富野由悠季『だから僕は…』(2002年、角川スニーカー文庫)