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原作エピソード「青騎士の巻」
富野によるオリジナル脚本の4作を並べてみると、原作のエピソードをアニメ化した第179話「青騎士の巻 前編」、第180話「青騎士の巻 後編」を富野が手掛けたことが非常に自然な流れとして見えてくる。というのも、オリジナルの4作と「青騎士」は深いところでの共通点が感じられるからだ。富野は「青騎士の巻 前編」で脚本・演出、「青騎士の巻 後編」で演出を担当している(後編の脚本は加藤靖三)。
「青騎士」は原作の中でも特別なエピソードだ。
「青騎士の巻」は『少年』の1965年10月号から、1966年3月号にわたって連載されました。
その頃盛んだった、学園闘争などの影響もあって、正義の味方・アトムのキャラクターをもっと反抗的なものにしてはどうか、と言ってきた編集者の意見を取り入れたという「青騎士の巻」のアトムは、人間達のあまりの横暴に堪えきれず、とうとう人間に反目するロボットとして描かれています。
しかしこの路線変更は、読者にはあまり快く受け入れられなかったようです。アトムの性格を変えてから、アトムの人気は目に見えて落ちていった、と手塚治虫ものちに回想しています。(※1)
このように「青騎士」は、当時の『アトム』人気の分水嶺と手塚本人に回想される一方で、同時に「原作は、当時の米国での黒人公民権運動を意識したもの」(読売新聞2003年3月7日付夕刊におけるテレビアニメ化第3作『ASTRO BOY 鉄腕アトム』に関する小中和哉監督の発言)という読解の根拠のひとつともなっているエピソードだ。
「青騎士」は、謎のロボット青騎士がロボット解体施設などを次々と襲撃するシーンから始まる。やがてアトムの前に現れた青騎士は、ロボットの国を作るための協力を要請する。ロボットでありながら人間を殺すことも厭わない青騎士を止めようとするアトム。その戦いの中で、アトムは青騎士の仮面の下は、転校してきたクラスメイトのトントと同じ顔であることを知る。
戦いの過程で青騎士の剣を手に入れたアトム。この剣を持った時、「痺れないロボット」と「痺れるロボット」の二種類がいることが発見される。その結果、持っても痺れないロボットは「青騎士型ロボット」であり、人間を殺す可能性がある危険なロボットであると認定されることになる。剣を使った判定で、青騎士型ロボットとされたアトムの両親は収容所へと送られてしまう。この措置に反対したアトムは、両親を収容所から連れ出し、青騎士が進めるロボットのための国・ロボタニア作りに参加する。ロボタニアに参加したアトムは、青騎士が何故生まれたのかを知ることになる。そしてロボタニアを認めない人間とロボットの間でいよいよ戦争が始まる。
アニメ版でなにが変わったか
アニメ版も、大枠は原作の通りである。ただし展開についてはいくつか大きなアレンジが施されている。一番のアレンジはゲストキャラクターたる青騎士にフォーカスがあたるように展開を再構成している点である。
まず「前編」で強い印象を残すのが、「青騎士型ロボットとは/ひどい悲しみで/電子頭脳がくるい/人間をにくしみ/きずつけることが/できるようになった/ロボットのことである」というテロップが冒頭に入ることだ。原作にはこうした演出はない。ここで青騎士の存在が、本作の焦点であることが明確に示される。
また原作はトントの転校から始まるのに対し、アニメは疾走する青騎士の姿から始まる。この変更は原作に仕掛けられた「級友のトントが青騎士だった」というサプライズから、「青騎士がトントだった」というサプライズへと、軸足が大きく変わったことを意味する。冒頭のテロップとともに、アニメはあくまでも青騎士の悲劇にフォーカスすることが狙いなのである。
「後編」の原作から大きく異なる部分も、前編のアレンジを踏襲している。
例えば、何故トントと青騎士は同一人物なのかを種明かしし、青騎士を狂わせるに至った悲しみの理由を説明するシーン。原作では青騎士の生みの親であるロッス博士が、お茶の水博士に語る形でそれが説明される。これに対しアニメ版は、人間との戦いが一旦中断した夜、青騎士自身がアトムに語る形になっている。本人がその身の上を語ることで、青騎士の怒りと悲しみがストレートに視聴者に伝わるようになっている。そして「後編」の悲劇的なラストには、前編冒頭に入った「青騎士型ロボットとは」から始まるテロップが再度示される。
「後編」脚本の加藤と富野がどれぐらい打ち合わせをしたのか、あるいは富野が絵コンテで調整したのかは不明だが、最後にテロップが再掲されることで、この前後編がなにを描こうとしたかが明確に打ち出されることになった。原作以上に青騎士の悲劇を際立たせた「青騎士の巻」は、ロボットというギミックに現代の様々な要素を反映させてきた富野脚本・演出の総決算といった趣がある。
アニメの可能性を信じる
では富野は、『アトム』にどのような意識で取り組んでいたのか。『だから僕は…』には当時のメモの引用がある。これは「ロボット ヒューチャーの巻」の後に書かれたものだが、どういうつもりで『アトム』、そしてアニメに臨むのかという所信表明のような文章になっている。
メモは「ロボット ヒューチャーの巻」を振り返り、「アニメとしては邪道で、アトムとしては極端にシリアスだった」と始まる。しかし、次元の低いものと思われているアニメだが「『ヒューチャー』では、アニメにもこれだけのものができるんだぞと信じてやった」と続けていく。それは「ヒューチャー」に対する自負というだけではない。「後は、他のドラマ媒体と同じく、同等のドラマ的価値を持つ、他の媒体と同等の市民権を有するものに育っていくはずだ」と、アニメというジャンルそのものへの可能性を信じていることと繫がっているのである。この可能性を前提に、手塚治虫の漫画が持っている文学性と比べた時に、アニメがそこに追いついていない、追求する意思が希薄であることを問題視する言葉が続く。
そして富野は「ヒューチャー」で目指したこととそれに対する自己判定をこう綴る。
僕は第一回作品にあたって意識したことは、シリーズからの脱皮ということなのだ。それはシリーズのなかの一本であっても、一本の完結した作品として通用するものを作ること。この点から厳密に考えると『ヒューチャー』は明らかに脱皮はしていない。ことにあのテーマ‟科学の悪用の拒否――もしくは希望の不在”は、二十四分のなかで未消化だった。ことにあのテーマをアトムにこじつけることによって消化不良を起こし、結局、アトムの作品群のなかの一部でしかないと思える。これが僕の結論だ。
メモの締めくくりはこうなっている。
今後は、アニメは他の芸術的ジャンルに匹敵するジャンルを形成するときがくると確信している。
僕以前のスタッフは、アニメをあくまで市民権を持たない子供として扱うことに興味の焦点を置いていた。これがアニメが市民権を得ない原因なのだ。自ら首をしめている。こう考える僕はアニメの世界で異端なのだろうが、異端は発端と考えたい
このメモは、後に富野の作品が目指すところを先取りしたような文章であり、本人も同書の中で「今と考えが変わっていない」と驚きを記している。この意気込みを踏まえると、「ロボット ヒューチャーの巻」から「青騎士の巻」へと続くロボットをテーマとした五つのエピソードは、初心の実践だったと考えられる。
ストーリー主義をめぐるジレンマ
ロボット・テーマ以外のオリジナル脚本についてはどうだろうか。ロボット・テーマ以外の富野のオリジナル脚本は、第128話「インカ帝国の宝の巻」、第131話「ムーン・チャンピオンの巻」、第149話「カンヅメ狂騒曲の巻」、第188話「鞍馬の天狗の巻」、第192話「メドッサの館の巻」がそれに相当する。
「インカ帝国の宝の巻」は古代の秘宝を巡る冒険もの。「ムーン・チャンピオンの巻」は月面ロボット競技会を題材に、旧式ロボット・トンビーとポンコッツ博士の関係を描いた人情ドラマ。「鞍馬の天狗の巻」は、京都を舞台に烏天狗姿の美術窃盗団が登場するという和のテイストが印象的な一作。写真を使った背景が独特の雰囲気を醸し出している。対して「メドッサの館の巻」は、雪の中の洋館を舞台に兄妹の情愛を描いたリリカルなテイストの作品だ。
異色ともいえるのは「カンヅメ狂騒曲の巻」。これは空から降ってきた謎のカンヅメを巡る争奪戦を描いたドタバタギャグ。ゲストキャラクターとして、人気がイマイチなバンド‟七代目ビートルズ”という四人組が登場する。彼らは、代々‟ビートルズ”を襲名してきた存在という設定だ。なお、本エピソードは1966年1月1日の放送。ビートルズ来日の年の元旦だが、ビートルズ来日の第一報は4月なので、来日にひっかけたアイデアというよりはあくまで当時のビートルズ人気をギャグのネタにしたというところだろう。
これらのエピソードは、当時のTVアニメらしく毎回違った趣向で視聴者を楽しませることを目的に書かれており、同時に富野自身が自分の創作の引き出しをいろいろ試していたことがうかがえる。
ただ、こうした自作について富野の自己評価は低めだ。富野は「僕が入社したころのアトムは完全にストーリー主義に陥っていた。とにかくストーリーさえドラマであればいいという自信だけで、僕はアトムを演出していた」(※2)と記している。しかし、ストーリー主義に寄りかかることで、『アトム』に本来あった手塚作品らしいリリシズムの欠如を招き、さらにアトムを支えた脚本家のひとりでSF作家の豊田有恒のいう「(SF的な)アイデア」もなくなってしまっていたのではないか、というのが富野の反省の弁だ。
この反省は次のような手塚の悩みと表裏一体でもあった。
テレビ漫画の「アトム」は四年続いた。つまり二百本の「アトム」のフィルムができたことになる。僕の原作通りのアトムは一年半ほどでおしまいになったが、そのあとも間に合わせるために、スタッフが片っぱしからストーリーを作り上げていった。いちばんかんたんなのはアトムとなにかを戦わせることだ。だんだんアトムの対決の相手が怪物になっていき、それにつれてアトムもかわいさがとれて、忍者みたいなスーパーマンになってしまい、現実ばなれがしてきた。なによりも漫画映画のたのしさがなくなってきた。漫画独特のギャグやユーモラスな画面が消え、やたらに正義や、カッコよさをふりかざした作品が生まれた。そのほうが台本を作るのに楽だったからである(※3)
富野の「ストーリー主義」をめぐるジレンマ。そして手塚のフラストレーション。これは結局、シリーズを統括し、『アトム』という作品で何を描くべきかを選別する監督の不在といえる。『アトム』では後半、文芸部の課長を担った石津嵐が中心になった時期もあるようだが、この時点で、現在考えられているような、主体的にシリーズを牽引する監督の職能が確立していたとは考えづらい。もちろん手塚なりなんらかのチェックはあっただろうが、多くは各話の脚本・演出担当に任されていたと考えるほうが自然だろう。
これが『アトム』と並行して始まった、『ジャングル大帝』(1965、林重行シリーズ・ディレクター)や、『アトム』の後番組である『悟空の大冒険』(1967、杉井ギサブロー監督)になると、監督のカラーがぐっと作品に反映されるようになっている(ただしこれは同時に、虫プロの制作現場からの‟手塚はずし”の現れでもあった)。富野によるストーリー主義の冒険は、監督の職能が確立する以前の『アトム』だったからこそ自由に行うことができたのだ。
アイデアが先か、ストーリーが先か
また富野のいう「ストーリー主義」は、もうひとつ対照先がある。それは『アトム』脚本家の中心的な存在であった、豊田有恒である。
1978年に出版された『ロマンアルバム 鉄腕アトム』(徳間書店)に、『アトム』スタッフの座談会が掲載されている。メンバーは、当時アニメーターでその後、画家となった紺野修司、当時脚本家でSF作家の豊田有恒、それに富野というメンバーで、司会も当時演出だった杉山卓が担当している。
ここで富野が、当時の『アトム』がストーリー主義に陥っていて、という趣旨のことを話すと、豊田が「いや、アイデア、ストーリーですよ」と返すのである。この短い発言は「まずアイデアがあり、その後にストーリーだろう」という意味だと思われる。
富野はこれをこう回想する。
その僕の発言にたいして、豊田氏は明快に、
「いや、アイデアです」
と答えられた。氏はそれをもってアトムに参加していたというのだ。その時の反応の素早さに、氏と僕の足場の違いをあらためて実感した。
僕は、ストーリーの組み立てと、ストーリーの訴求するものとは何かという視点からアトムの演出をしたのだが、氏の場合はアイデア先行なのだ。SFの素材として面白いかどうか、そのアイデアがストーリーを組むに値するか否かがまずあって、脚本なり小説にむかわれるというのである。(※2)
富野は現在でも「SFはわからない」という発言をしているが、一方で富野の監督するアニメはSF的な設定が導入されているものが多い。これも富野が、豊田のようにアイデアからストーリーに進むタイプの発想をしていないと、自己認識していると考えるとわかりやすい。富野は、描きたいストーリーあるいはシチュエーションがあり、それを直接的にではなく、フィクションとしてエンターテインメントに昇華するためにSF的設定を使っているのだ。そのスタンスが、豊田の発言へのリアクションから垣間見える。
富野は、ストーリー主義を決して好意的な意味合いで使っていない。「ストーリー主義」という言葉はおそらく「目先の展開のおもしろさ・刺激で観客を誘導していく」ということを指している。富野は後年、いわゆる物語や物語づくりを指す時に「劇」「戯作」という言葉を使うようになる。この「ストーリー主義」と「劇」「戯作」の差分にこそ、富野の考える物語作りの重要なポイントがあると考えられる。そこについては、後の章で改めて触れたい。(続く)
【参考文献】
※1 Webマガジン「虫ん坊」オススメデゴンス! https://tezukaosamu.net/jp/mushi/201004/intro.html
※2 富野由悠季『だから僕は…』(角川スニーカー文庫、2002年)
※3 手塚治虫『ぼくはマンガ家』(立東舎文庫、2016年)