ちくま新書

「社会に出ること」のとまどい

『ホモ・エコノミクスーー「利己的人間」の思想史』はじめに

経済学が前提とする「利己的で合理的な主体」はどこで生まれ、どんな役割を果たしてきたのか――。私たちの価値観を規定するこうした人間像の謎を思想史的によみとく、重田園江『ホモ・エコノミクス』が刊行されました。多くの人が若い頃に抱くであろう「とまどい」を糸口にこの難問へといざなう、本書の「はじめに」を公開します。


はじめに 「社会に出ること」のとまどい
 

 私は大学で、主に三・四年生を対象に講義をし、ゼミを持っている。近ごろは三年生のはじめから、みんなそわそわしている。何にそわそわしているかというと、就職活動だ。就活の早期化・長期化の弊害がくり返し指摘されるが、それを指摘するマスメディアこそがいち早く就活生をかっさらっていくので、本気で反対しているわけではないのだろう。そしてインターンというかつてなかった制度がどこからともなく(というよりアメリカから)輸入されたことで、事態はさらに悪くなっているようだ。学生の中には、一年以上ずっと就活している人もいる。終わったときには燃え尽きて、学業どころでないのは自明である。もちろんこうした状況は行き着くところまで行って矛盾の塊と化しており、すぐにも変えるべきだ。ただし、変わることへの期待は虚しく裏切られつづけている。

 ここではそういった就活のあり方の是非論は措いて、そのなかでしばしば学生たちから聞く悩みについて考えてみたい。どこに就職したいのか、どんな仕事をしたいのか、明確に定まっている学生は少ない。たいていは企業や業界の数が多すぎて、そこからどうやって業種を絞ったらいいか分からないという。「じゃあ何か仕事に希望とかあるの」と聞くと、意外な答えが返ってくる。それは「人の役に立つ仕事がしたい」というものだ。

 この答えはびっくりするほど多くの学生から返ってくる。最初は「奇特な人がいるもんだ」と思っていたが、途中で考えを改めざるを得なくなった。二〇歳前後の大学生の中に、人の役に立つ仕事をしたいと思っている人がかなりの割合でいるのだ。彼らはやがて悩みつつも社会人になる。その後再会すると、案外スッキリした感じで仕事に励んでいる(もちろんオーバーワークで倒れそうな人や、パワハラに悩む人もいるが)。そして彼らが社会人になったからといって、急に人が変わったとも思えない。人の役に立つ仕事ができているかと聞かれて、何の躊躇もなくうなずけるかどうかは別として、それでも同僚、上司、そして取引先の人たちと、多くの場合善意に基づいていい仕事をしようと頑張っている。

 また、私自身の周りを見渡しても、周囲の人と協調しながら大学や学部を少しでもよくしていこうと思って大学行政や改革に携わっている人は多い。それが大学という特殊な環境であることも関係するかもしれないが、それにしても、「競争的な人格」と呼べるような人は皆無だ。つまり、自己利益のために他者と競合し、できるだけ自分の得になるようにつねに抜け目なく行動するような人は、私が直接知る人にはほぼいないということだ。反面、自分が損害を被っても他者の利益のために行動する、宗教家みたいな人にもお目にかかったことがない。「人のために役に立ちたい」と思う学生たちも、周囲の職員や教員も、いってみれば普通の人々だ。この人たちはおおむね、そしておそらく自然に、互いに協調しながら社会的によき結果をもたらしたいと願い、そのように行動している。

 学生たちが悩んでいるのは、一方でそうした道徳的にも首肯されるいわば慎ましい願いを持っているのに、就活で要求されるのがそれとはかなり異なった価値観に思えるからだろう。たとえばエントリーシートで「盛る」ことをはじめとして、「学生時代に力を入れたこと」をアピールするために、自分を実際以上に大きく見せなければならない。彼らは高く売れる人材でなければならないのだ。企業は利益を出さないと存続できないのだから、「使える」人材を採用したいのは当然だろう。だがここで、学生たちは突如として資本主義の荒波にもまれているような感覚に苛まれるのだ。自分の「売り」とはなんだろうか。そもそも自分を売るってどういうことなんだろう。

 彼らはインターンや集団面接でのグループワークやディスカッションでは、人より抜きん出ていることをさりげなく示さなければならない。企業の採用担当者は「ふだんどおり、ありのままを見せてください」と言うのだが、ありのままを見せる人なんていない。だいたいそんなことをしたら、場をわきまえないとして即座に切られるだろう。一方、採用担当者の側でも、虚飾を含んだアピールに候補者の人となりを見きわめられず苦労するようだ。そういう駆け引きや騙し合いみたいな世界がきわまって、人事担当者が採用候補者のSNSの裏アカウントをこっそり調べる業者を雇ったりするらしい。企業にしてみれば学生の本音が見えないということなのだが、就活生にしてみれば、本音なんて出せない状況を作っているのは採用の仕組みそのものでしょう、というわけだ。

 人間を競争的環境に置くこと。そしてその競争が金銭的価値によって測られること。そのなかで自分自身が一つの「商品」であるかのように扱われ、自分でも自分を売れる商品としてアピールしなければならないということ。こうしたことが学生たちを戸惑わせ、「人の役に立つ仕事がしたい」という、漠然としているが真っ当な願いとのギャップに苦しむのだ。

 このことから分かるのは、世の中にはどうも、大きくいって二つの価値観がせめぎあっているということだ。そしてそれらが調停されないまま、人々にさまざまな選択を強いている。私たちが学校で習い、家庭で小さいころから教育されるのは、「自分のことばかり考えず」「人のためになるような」行動をすること、そして協調性を持って生きていくことだ。もちろんいつもそうできる人はいないだろう。だとしてもそれは少なくともよいことで、社会的に広く承認された道徳であることはたしかだ。

 ところが、それとはまったく異なる価値観が、いろいろな場所でちょいちょい顔を出す。それはエゴイストの相貌をしているので、道徳的是認を得ているようには見えない。だが実は、ひそかに強力な人生の指針として参照されているようなのだ。

 私たちが経済活動を行うとき、わざわざ自分が損をする取引はしない。そんなことをしても誰にとっても利益にならないというのが、この世界でのお約束だからだ。市場における取引は、何か特別のことらしい。誰もが大手を振って自己利益が第一だと主張できるのだから。ここで行動のモデルになるのは、商品売買である。人々が利己的に自分の儲けだけ考えると、それによって取引がさかんになり、みんなが自分一人では作れないものを手に入れて豊かになる。まさにWin-Win だ。

 ここでの人間モデル、つまり自己利益の主体は、市場と仲がよい「競争」という関係様式をともなって、経済の世界にしばしば登場する。学生たちが就活で戸惑ったのは、ビジネスにおいて当然視されている自己利益と競争の行動様式を、経済活動への入口で突然求められている気がしたからだろう。

 私はこの自己利益の主体というものに、何ともいえない居心地悪さを感じてきた。いまの学生たちと同じように「人の役に立つ仕事がしたい」と思っていたし、協調性もないのに社会活動家になりたいと願ったりした。そして就活に悩み苦しむ学生たちを見て、自分の若いころとぶつかる問いや違和感はあまり変わっていないと思うようになった。つまり、自己利益の主体であれと突きつけられることの居心地悪さはいまにはじまったことではなく、探ってみる価値のある一つの「問題」なのだ。

 こうした経験の中で考えてきたことが、本書のテーマにつながっている。自己利益の主体は当然の存在ではなく、人がしばしば違和感を覚える何かなのだ。そしてまた、多くの人は通常そのような原則に従って生きてはいない。それなのになぜ、人が自分の利益を第一に考えるのは当然だと声高に言われ、そもそもそうでなければ市場は成立しないと主張されるのか。エゴイストが競争するのが市場なら、そんなものはいらないとなぜ言ってはいけないのか。

 これは、資源の配分が効率的になされるとか、インセンティヴを引き出して社会を豊かにするとか、市場についてよく言われるメリットの話ではない。そういったものと引き換えにすることが難しい、人間の行為原則、あるいはモラルの問題なのだ。だからみんな就活に悩み、社会に出たら人の役に立ちたいという思いが裏切られるのではないかという予感に恐怖するのだ。

 ではこの、まったくもって自明の存在とは言えない自己利益の主体、利己的人間、あるいはホモ・エコノミクスは、どこから出てきたものなのか。そしてどんな役割を、この社会で果たしてきたのか。これが本書のテーマとなる。相異なる価値観や生き方の相克に悩んだことがある人なら、きっと何か感じるところがあるはずだ。ではここから時代をさかのぼって、この問題についての探求をはじめることにしよう。