はじめに
私は小学生のころ、父が勤める会社の社宅に住んでいました。そこには、同じ世代の子どもがたくさんいて、よく一緒に遊んでいました。おもちゃやゲームで遊ぶこともあれば、ボールでスポーツをすることもありました。しかし、そうした遊びはだんだん飽きてくるものです。すると遊びは過激になっていきます。スリルを求めるようになるのです。
たとえば、私の家の近くには、大きな公園がありました。そのなかには、関係者しか立ち入ることのできない、小さな建物がありました。いま思うと、たぶん何かを管理するための小屋だったのですが、ほとんどの時間、その施設は無人でした。愚かな小学生だった私たちは、その施設に無断で入り込んだことがあります。もしも大人に見つかったら怒られるに決まっています。それでも、胸を躍らせながら塀を乗り越えていきました。
もちろん、そこで何かを盗んだり、壊したりはしていません。ただ中に入って、「入ってはいけないところに入ってしまった!」という感動をひとしきり味わってから、外に出ただけです。その体験は私にとって愉快でたまらないものでした。もちろんいまは反省しています。当時の関係者の方には申し訳ないとも思っています。すみません。
でも、考えてみると不思議です。いったいその行為の何が楽しかったのでしょうか。施設はとても味気なく、子どもの私をときめかせるようなものは何もありませんでした。そこは、夢の国でもなければ、お菓子の家でもありません。それなのに私は、その空間にいることで、心臓の鼓動が聞こえるほどの興奮を感じました。後から考えてみると、不思議です。
その施設は塀に囲まれていました。それを突破するためには、かなり頑張って壁をよじ登らなければなりませんでした。それを成し遂げた達成感はあったかもしれません。ただ、それがすべてだった、ということはないでしょう。もしもそうであれば、ただ木登りをしても同じ喜びが味わえるはずです。しかし、その施設に侵入している間、私が感じていた喜びは、木登りとはまったく違ったものでした。
もしかしたら、私がそのように胸を躍らせたのは、そこが立ち入り禁止の施設だったからかもしれません。つまり、そこが入ってはいけないところだから、もしも勝手に入ったら大人から怒られる場所だったから、ということです。禁止されていることを、あえて破ってしまったということ、そのことに喜びを感じていたのかもしれません。
そんなことを書くと、私はとんでもない悪人のようです。たしかに、子どものころ、私はよく大人から素行の悪さを怒られました。火遊びをしたり、坂の上から自転車で疾走したり、ペットボトルロケットで学校の三階の窓を割ったりと、いろいろと人に迷惑をかけ、その都度死ぬほど怒られてきました(いまでは本当に反省しています)。
しかし、禁止されていること、やってはいけないとされていることを、あえてやりたいと思ってしまうこと、そしてそれにスリルを感じ、わくわくし、心を躍らせてしまうこと――そうしたことは、誰もが体験することではないでしょうか。要するに、悪いことは楽しいのではないでしょうか。
しかし、それはなぜなのでしょうか。なぜ私たちは、悪いとわかっていることをあえてすることに、楽しさを感じるのでしょうか。そもそも「悪い」こととは何なのでしょうか。そして、それを破ることによって得られる「楽しさ」とは、いったいどのようなものなのでしょうか。
悪いことはなぜ楽しいのか――その問いを手がかりにしながら、「よい」と「悪い」の境界について考えること、それがこの本のテーマです。
こんなことを言うと、もしかしたら多くの方から誤解されてしまうかもしれません。最初に断っておきます。この本は、みなさんに悪い行為を推奨するものではありません「悪いことは楽しいんだから、みんなで悪いことしようぜ!」と言いたいのではありません。
この本が明らかにしたいと考えているのは、私たちにとって悪いことが楽しいと感じられる、その理由です。私は、人間関係や社会のあり方を考えるうえで、この問題がとても重要であると考えています。その理由は、大きく分けて、三つあります。
第一に、「悪い」ことがなぜ楽しいのか、ということを理解できなければ、それを避けることもできないからです。悪いことを避けるためには、悪いことが楽しいということを認め、その理由を理解するべきなのです。このことは、たとえば、ドラッグを避けるということにも似ています。ドラッグは人間にとって有害なものですが、しかし快楽を与えます。快楽からは、その人体への有害さは――少なくとも快楽を味わっている間は――わかりません。だからこそ、有害であるにもかかわらず快楽を与える、という客観的な知識が、ドラッグで人生を滅茶苦茶にしないために、必要不可欠です。悪いことがなぜ楽しいのかを考えなければならない理由も、それと同じです。
第二に、私たちにとって楽しいことが、「悪い」と評価されるとき、なぜそのように評価されるのか、その根拠がどこにあるのかを考える必要があるからです。楽しいものは、私たちにとって望ましいものであるように思えます。それがなぜか大人たちから「悪い」と評価され、私たちから遠ざけられてしまうこともあります。しかし、その評価が正しいという保証はありません。もしかしたら、その評価は間違ったものであり、大人たちは私たちにとって望ましいものを、自分の都合で遠ざけているのかもしれません。
このことは、「悪い」ことを避けるべきである、ということを否定しているわけではありません。そうではなく、なぜ私たちの楽しい行為が、避けるべき「悪い」行為として扱われるのか、と問うているのです。それが明らかにされなければ、私たちは大人から不当に評価されたり、管理されたりすることになるかもしれません。
第三に、「悪い」ことについて考えることは、結果的に「よい」ことについても考えることになるからです。「悪い」ことが楽しいのなら、「よい」ことは楽しくないかもしれません。単に楽しくないだけなら、特に問題はないでしょう。しかしそれが、「楽しくない」だけではなく、「苦しい」だったり「辛い」だったりするなら、話が変わってきます。私たちは、善良さのために、あるいは正義のために、人を苦しめたり、傷つけたりしてもよいのでしょうか。これもまた、しっかりと考えるべき問題です。
そういうわけですから、この本は決して、みなさんを悪の道に進ませようとしているものではありません。あるいは反対に、「こういうふうに行為することは悪いことだからやめよう」といった、お説教をしたいわけでもありません。そうではなく、私たちにとって本当に「悪い」ことを見定め、そして「悪い」ことに誘惑されてしまう人間の弱さを受け入れながら、よりベターな生き方がどのようなものかを考える手がかりを提供すること、それがこの本が目指していることです。
さて、こうしたテーマは、学問的には倫理学と呼ばれる領域に属します。
倫理学と聞くと、いかにも説教くさく堅苦しいものを想像されるかもしれません。堅苦しいことは、正直否定できないのですが、しかし倫理学は必ずしも説教くさいものではありません。なぜなら倫理学は、私たちが「当たり前」だと思っている価値観を問い直し、それに揺さぶりをかけるものだからです。
たとえば私たちは、人に噓をついてはいけない、ということを「当たり前」だと思っていますし、それは「悪い」ことだと認識しています。物事の判断はまずそれを前提にして行われます。たとえばある状況のなかで誰かが噓をついたとき、その噓はやむを得ないものだったのか、それともやはり非難されるべきものだったのかが問われます。しかしこのとき、そもそも「人に噓をついてはいけない」という「当たり前」が問い直されることはありません。それがすべての判断の出発点になるからです。
しかし、そもそもなぜ人に噓をついてはいけないのでしょうか。実はこれは、本気で答えようとするとかなり難しい問題です。「人に噓をついてはいけない」を「当たり前」だと思っている人の多くは、おそらく、この問題に答えることができません。そうだとすると、人々は自分でもなぜそれが正しいのかわからない常識を信じて、物事を判断している、場合によっては人に説教している、ということになります。
このような問題にメスを入れ、できるだけ人々が納得できる答えを出そうとする学問が、倫理学に他なりません。
この本では、倫理学において問われる様々な問題を、「悪いことはなぜ楽しいのか」という観点から、一つ一つ紹介し、考察していきます。その意味では、この本は倫理学の入門書として読むことができるでしょう。しかし、ふつうの入門書とは違うところもあります。ふつうそうした本では、善や正義といった、プラスの価値をもった概念が中心的に紹介されます。それに対してこの本は、あくまでも「悪いこと」に注目し、しかもそれが「楽しい」という認識から出発しているのです。これは倫理学の入門書としては、王道の反対を行くアプローチになるでしょう。
でも、だからこそ、この本は倫理学の核心に近づくことができると考えています。たとえば、住宅でたとえるなら、ふつうの倫理学の入門書が玄関から入ろうとするのに対して、この本は裏の勝手口から入ろうとするのです。お客さんが来るとなれば、誰でも玄関は綺麗に取り繕うことができます。見せたくないものは、勝手口の方に追いやられます。しかし、そのように人目のつかないところに隠されるものにこそ、その家の本当の生活が垣間見えるものではないでしょうか。この本が明らかにしようとしているものは、ありふれた倫理学の入門書では隠され、脇に追いやられているにもかかわらず、実はその実態をありありと暴露しているようなもの、そうしたリアリティをもった問題なのです。
最後に、一つだけ。
「当たり前」を問い直す、ということは、その問いの答えを「当たり前」なことで説明することができない、ということを意味します。常識を疑っているときに、常識から答えを導きだすことはできません。倫理学の議論は、そうした正解のなさ、答えのなさに必ず直面します。きっとみなさんも、この本を読みながら、「それで結論は何なんだよ」と思うことが、一度ならずあると思います。
倫理学は、そもそも答えのない学問だ、と言い切ってしまうこともできます。でも、そうすると「何を言ってもオッケー」という、極端な発想に陥ってしまうことになります。それこそ、「悪いことは楽しいんだから、悪いことしまくればいいじゃん」という、受け入れがたい結論に至ってしまうかもしれません。
それを避けるためには、何をもって正しいと見なすのか、その判断の基準を、常識とは別のところに設定する必要があります。そうした判断の基準、いわばリトマス試験紙のような拠り所として、みなさんに覚えておいてほしいことが、二つあります。
一つは、みなさん自身がその議論に納得できるか、ということです。偉い先生が正しいと言っているとか、常識で正しいとされていることが、常に正しいとは限りません。自分で考え、自分が正しいと納得できることだけが正しい、まずそのように考えてほしいです。
そしてもう一つは、みなさん自身が、自分が正しいと思っていることを、周りの人が納得できるように説明できるか、ということです。自分が納得していても、周りの人を納得させられないのであれば、そこには何か齟齬が起きているはずです。もしもうまく説明できないなら、もしかしたら自分がわかったと思い込んでいるだけで、本当はわかっていない部分があるのかもしれません。そうしたとき、自分は何かを誤解しているの ではないか、あるいは何かを見過ごしているのではないか、と、改めて考え直してみてください。
この二つの指針をもっても、絶対的な答えにたどり着けるかどうかはわかりません。しかし、少なくとも答えに対して接近することはできるでしょう。あるいは、たとえそれが難しくても、ひどい誤解から遠ざかることはできるはずです。
前置きが長くなりました。そろそろ、この本の内容に入っていきましょう。
倫理学の「勝手口」へ、ようこそ。
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