いい味噌や醬油をつくる昔ながらの蔵元には、「家付き酵母」が棲みついているという。長い年月をかけそこに棲みつき、味噌や醬油に、そこでしか再現できない独特の「風味」を加える。同じ材料、同じ製法で造っても、他の蔵元では同じ味は出せないのだそうだ。
学校にも似たところがある。生徒は毎年入れ替わるし、当然一人一人違うのだが、それでも同じ学校の生徒には共通する「らしさ」が宿る。
特に個性的な「らしさ」を醸し出す学校を、人々は「名門校」と呼ぶ。個性的な「らしさ」を身につけた者同士は、お互いに「におい」でわかる。ちょっと話してみるだけで、同じ学校の出身ではないかと直感的に感じるのだ。ときにその「におい」は鼻につくほどだ。
ただし、その「らしさ」とは何なのか、どうやってその「らしさ」が身につくのかといわれると、「何となく」以外に答えがない。
それでも、名門校のクオリア(≒感覚質)は存在する。その証拠に、巷で学校を話題にするとき、教育の専門家でなくても「あの学校は名門校といっていいだろう」とか「いや、あの学校は名門校とは呼べない」などの一家言をもっているひとが多い。ひとそれぞれに「名門校」を規定する感覚があるのだ。
ひとには、いい味噌や醬油とそうでないものを判別する能力が備わっているのと同様に、名門校とそうでないものを峻別する能力も備わっているようだ。それが自分たちにとって本当にいいものであったり大事なものであったりということが、ほとんど本能的にわかる。
では、名門校とは何か。それを少しでも浮き彫りにしようとするのが本書の狙いである。
そのために私は全国有数の、「名門校」と呼ばれる高校および中学校を訪ねた。訪ねる学校は、歴史の特異性に注目して選んだ。どんな生い立ちで、どんなあゆみを積み重ね、いまがあるのかを聞いた。教員の思いの丈を受けとった。分厚い学校史にも目を通した。
序章では名門校を語るうえで必要になる前提を共有する。第1章では旧制中学としての生い立ちをもつ学校、第2章では江戸時代の藩校由来の学校、第3章では女学校として生まれた学校、第4章では大学予科や師範学校として歩んだ歴史をもつ学校、第5章では大正や昭和初期にできた学校、第6章では戦後生まれの学校、第7章では学校改革によって生まれ変わった事例をレポートする。終章ではいよいよ名門校に棲みつく家付き酵母の正体に迫る。海外の名門校についても触れる。
学校名を見出しに立てて取り上げている国内の名門校にはすべて直接足を運び、その学び舎に棲みつく家付き酵母を探した。しかし、本書に掲載した学校以外にも名門校と呼ばれる学校はたくさん存在する。そこで巻末には付録として、各時代、各地域で名を轟かす
学校が登場する保存版の各種ランキングを収録している。
● 東大+京大+国公立大医学部医学科の合計合格者数による高校ランキング
● 東大/京大/国公立大医学部医学科それぞれの合格者数による高校ランキング
● 年代別の旧七帝大平均合格者数による高校ランキング
●47都道府県別の高校入試偏差値ランキング
ただし、名門校を並べて品評会をしたいのではない。名門校ガイドブックをつくりたいわけでもない。ましてや、名門校とそうでない学校を区別したいわけでもない。
押しも押されもしない名門校に共通する「何か」を見出し、さらには、「いい学校教育とはどのようなものか」「いい学校はどのように進化するのか」のような普遍的なテーマにまで踏み込みたいと考えている。それが、変化の激しい時代におけるこれからの教育のあり方を考えるうえでの道標になるはずだと思うからだ。
本書を読み終えたときには、きっと「学校」とか「教育」などという言葉の響きに対しての感覚や認知が大きく変わっているはずだ。いちどその視座に立ってしまったらもう元には戻れない。
また、それぞれの名門校に受け継がれる文脈の壮大さ奥深さそして人間臭さを知ってしまうと、偏差値や進学実績といった瞬間的かつ一面的な基準で学校を論ずる無意味さや、場当たり的な教育改革議論に対する違和感あるいは嫌悪感から逃れられなくなってしまうかもしれないので用心されたい。