理科教育は進歩したのか
この本のメインターゲットは一体誰なのか。学校で理科に携わっている我々のようなものなのか、よく科学書的な本を読んでいる理科が得意だった人なのか、それとも理科が嫌でもう思い出したくもない人なのか。読み終わっての感想は、そのすべてだ。それは年代にしてもいえる。
サイエンスが様々な分野でとてつもない勢いで変化してきている学問の一つなのはまぎれもない事実。その一部を教育内容として落とし込んでいる理科も当然変化しているのだが、どうもそれは色々な力によってねじ曲げられてきた歴史でもあるということを目の当たりにすることになる。
義務教育や高等学校で学んだ理科は、比較的現代的な科学で、この先もちろん新しい知見は加わるだろうが、その時点では十分なものだったと、おそらくほとんどの人が考えている。ところが残念ながら、義務教育がいつだったかによって事情が異なる。「不要である」とか「難解すぎる」というレッテル貼りが行われたり、体系的に成立していないようなことが羅列されていたりして、後にその内容は削られてしまったかもしれない。
そんな事実が、戦後を七つの時代に分けて明快にあぶり出されている一冊なのだ。
変化するものと普遍的なもの
身近なものに使われる単位は、世界標準にどんどん置き換えられてきている。国際化が進むと、共通の言語にあたる単位が共通化されていくことは必然だ。一方、考えさせられるのは普遍的なものの考え方である。
例えば「水」。これを扱わなかった時代はない。中学校理科を教えている現職の立場で本書を読んでいたら、知らず知らずのうちに教科書の内容をなぞって満足していたことに気づかされた。一九五〇年代の生活単元学習の時代の教科書でハッとさせられたのだ。そこには身近な水について、「安心して飲める水と、飲めない水を見分けることができますか」など、八つの問いかけをすることで、活き活きと自ら学びたくなるような工夫があった。様々なことが便利になった現代であっても、生きていく上で、水の有効利用は普遍的なものであるのに、そこに意識が届かないような指導をしてしまっていたことを反省させられた。
便利な世の中だからこそ
時代の変化によって便利なものが増えてきているのは事実であろう。ところがそれに慣れてしまうと工夫がなくなってしまう。資源が乏しい国で生活しているにもかかわらず、そんな意識がなかなか育たない。実はその原因の一端が理科教育にもあるのではないかという気づきもあった。それは「消えた理科実験」である。
様々なもののブラックボックス化は理科実験にも波及している。一見便利なものだとしても、物の本質を見誤る原因になっている可能性が高いと痛感させられる。ボタンを押すだけで火が点いて当然という時代だ。そのうち「火」すら見たことがないということも起こりそうな勢いなのだ。
本書では「ものづくりにほとんどの子どもたちは心を燃やして取り組む」と指摘している。理科がどうして、そんな子どもの心の火を消しつつあるような流れになってきたのかは、教科書検定や学習指導要領と関連させて考察している。
戦後から七五年以上の理科教育の歴史を一冊にまとめるという膨大な作業は理科教育の第一人者である筆者にしかできなかっただろう。本当の「学び」というのは何なのか、今後はどうあるべきなのかという気づきにあふれていることを考えると、やはり本書は全世代のあらゆる人が読んでおくべき一冊ということになりそうだ。
(あおの・ひろゆき 千歳市立北斗中学校教諭)