ちくまプリマー新書

歴史ぎらいの原因は教科書にある⁉
『歴史学のトリセツ』より本文を一部公開!

歴史がつまらないという人は残念ながら多くいます。ではなぜそう思ってしまうのか? 理由を探るために歴史学の流れを振り返ってみましょう。専門家から一方的に伝えられるだけが歴史ではありません。歴史の見方が大きく変化すること間違いなしの1冊『歴史学のトリセツ 歴史の見方が変わるとき』より一部を公開します!

 

 

原因は高等学校歴史教科書か?

 本書の「はじめに」では、多くのみなさんにとって歴史とはじめて出会う場は学校の授業であり、そして、授業では先生方が「歴史って面白い」ことをみなさんに伝えようとして四苦八苦しているんじゃないか、と書きました。

 もしも、それでも学校の授業のせいで「歴史って面白くない」と思ってしまうひとがたくさんいるとしたら?

 ここで頭に浮かぶのが「教科書」です。つまり、教科書が面白くないんじゃないか、だから、たいていは教科書を使って進められる授業も面白くないんじゃないか、ということです。さて、どうでしょうか。

 本章では、こんな疑問を頭にとどめながら、二〇二二年に高等学校に導入された必修科目「歴史総合」の教科書を読み、その特徴をさぐってみたいと思います。

ナショナル・ヒストリーではみえないもの

『現代の歴史総合』と題する高等学校「歴史総合」教科書の一節から始めましょう。ここでは、一八世紀にイギリスで始まった産業革命が、一九世紀になって、ドイツや日本に対してどんな影響を与えたかについて述べられています。ちなみに産業革命とは、この教科書によれば「新しい技術がつぎつぎと開発され、これらが実用化されていった」事象を意味します(『現代の歴史総合』二九頁)。

 イギリスで始まった産業革命は、世界各地に多様な影響を与えた。ドイツでは、イギリスに対抗するため、政治的統一に先がけてドイツ関税同盟が発足(一八三四年)して自国製品の国内市場確保を試み、またプロイセンなど諸邦では科学技術の発達を担う大学の設立が促進されるなど、典型的な政府介入型の産業革命が進められた。同様の事態は、明治維新後の日本にもみられる。(『現代の歴史総合』三一頁)

 まず、ちょっと気になる文言があります。「ドイツ」です。

 第二文は「ドイツでは」で始まりますが、すぐあとに「政治的統一に先がけて」とあり、また「プロイセンなど諸邦では」という文言が続きます。実際、ドイツ関税同盟が発足した一八三四年、まだ「ドイツ」という国家は存在しませんでした。

 のち(一八七一年)にドイツ帝国となる地域には、プロイセン王国、「自由ハンザ都市」として国家と同格の地位を与えられていた都市ハンブルク、ヘッセン選帝侯国といった、小さな、それも肩書を(王国とか自由ハンザ都市とか選帝侯国とか、ほかにもいろいろあって)異にする国々がひしめきあっていました。肩書が異なっていて列記するのが面倒くさいので、これらをまとめて「邦(複数で諸邦)」と呼んでいるわけです。

 まだ存在していない国家を、あたかも存在しているかのように記載してしまう。これは、この文章の筆者の目が「現在」に置かれていることを示しています。たしかに二一世紀を生きる著者の目の前には「ドイツ」という国家が存在しているわけですが、それを、一九世紀半ばという「ドイツ」が存在していない時空間に投影してしまっているのです。

 ここから、いったいなにを読みとることができるか。そして読みとるべきか。

 まず読みとらなければならないのは「ドイツ」という国家の存在感の強さです。もちろん、この「存在感が強い」という特徴は、ひとり「ドイツ」だけではなく、先の文章に出てくる「イギリス」や「日本」といった国家にもあてはまります。

 歴史という時空間をみる際にまずナショナルな単位つまり国家が目に入り、アクターとして動きだす――ぼくらは、国々が主要なアクターとして行動する時空間として歴史を描きだし、あるいは、そのようなものとして歴史を捉える傾向にあるようです。

 このような歴史を「ナショナル・ヒストリー」と呼びます。日本語に訳すと「国民史」になると思いますが、「国民史」だと、先に述べたような、さまざまな含意が捉えづらいので、歴史学界では英語のまま「ナショナル・ヒストリー」と呼ぶのが普通です。

 でも、国々の歴史だけが歴史なのでしょうか。歴史を作りあげ、歴史を動かしてきた主要なアクターは、国々だけなのでしょうか。

 実際には、そもそも国民がいなければ国家はなりたたないし、ひとりひとりの人間がいなければ国民という人間集団もなりたたないわけだから、歴史の主要なアクターはだれよりもまず、さまざまな個性をもった人間だったし、また、そうであるはずです。

 ところが、これら多様なひとびとが「国民」としてひとくくりにされ、さらに人格のない「国家」に換骨奪胎され、歴史の主要なアクターとみなされてしまう。「ドイツ」とか「日本」とかいった国家を主語として、歴史が紡がれてゆく――こうしてできあがったのがナショナル・ヒストリーです。

 ここで確認しなければならないのは、『現代の歴史総合』は、記述の枠組みとしてナショナル・ヒストリーを採用しているということです。

 それでは、国家を主要なアクターとし、国家を主語とする文章が並ぶ歴史は、面白いでしょうか。それとも、無味乾燥でイマイチというべきでしょうか。

 いろいろ意見はあるだろうと思いますが、ぼくは「うーむ、ちょっと……」です。だって、過去を生きた人間の顔がみえてこないじゃないですか。