「なぜ室町幕府はなかなか滅亡しなかったのか?」ということは、昔抱いた疑問だった。しかし、この疑問に答えるのは、極めて困難である。
室町幕府は各国に守護を置いて地方の統治を行い、九州、東国など一部の地域を除く守護は、在京して将軍を支えた。将軍と守護が両輪となって、国内統治を行っていたのである。三代将軍に足利義満が就任すると、専制的な性格を強め、幕府に反旗を翻した山名氏(明徳の乱)、大内氏(応永の乱)の勢力を削いだ。山名氏と大内氏は、複数国の守護を一族で兼ねていた。
勢力を削いだというのは、彼ら一族を徹底して根絶やしにしたのではなく、首謀者を討つに止まったことである。生き残った一族の者には、残った領国の一部の守護職を与えるなどし、存続を許したのである。いかに将軍とはいえ、有力守護を徹底して殲滅するのは憚られ、勢力を削げば事足りた。ほかの守護への配慮もあったに違いない。
四代将軍の義持も義満と同じく、専制的な志向が強かった。応永三十四年(一四二七)、義持は突如として赤松満祐から播磨を取り上げて御料所(幕府の直轄領)とし、満祐と同族の持貞に与えることにした。当然、満祐は反発した。
守護はそもそも世襲でなかったが、十四世紀の後半から特定の一族が世襲するようになっていた。義持は将軍の当然の権利として、満祐から播磨守護を取り上げたのだが、満祐に落ち度がなかったので思いがけない反発にあったのだ。事実、畠山満家や僧侶の満済は、満祐に同情の念を示していた。この一件は、持貞の不義密通が露見し、満祐は許されることになったが、いかに義持が専制的な志向を強めたとはいえ、「やりすぎ」というのは周囲の理解を得られず、将軍権力は規制されていた。
六代将軍の義教は、専制政治を越えて恐怖政治を行った。武家、公家、僧侶を問わず、気に入らない者がいたら、即刻処罰するのである。とりわけ守護家の家督問題に介入したり、有力守護の暗殺や追放を繰り返したのはいただけなかった。人々は義教に恐怖したのである。
その不満が爆発した大事件こそ、嘉吉元年(一四四一)に勃発した嘉吉の乱である。満祐は先手を打って、自邸で義教を殺害したのである。その後、満祐は幕府軍によって討たれたが、一族もろとも滅亡したわけではない。室町幕府も滅亡せずに存続した。不思議な話である。
将軍を中心にして、守護が諸国を治めるという秩序は、容易に崩壊しなかった。将軍でいえば、義教が亡くなれば、子供(義勝、義政)というスペアが存在した。守護も同じことで、現当主が亡くなれば、その子供や一族が後継者となった。つまり、既成の政治秩序を変えるのは極めて困難であり、その枠組みで争乱を展開したのが十五世紀の政治社会だった。室町幕府も守護も、既成秩序の枠組みの中で強靭に生き残ったのだが、変化はあった。
守護になることは重要な意味を持ったので、守護家内部の熾烈な争いが各地で勃発したのである。義教の死後激化した家督争いに、細川勝元や山名持豊は一方の勢力に加担することで、幕府内における発言権を増そうとした。赤松氏は時勝の遺児・政則が生き残ったものの、守護にならなければ意味がなかった。政則は勝元に味方することで活路を見出し、応仁元年(一四六七)の応仁の乱に乗じて播磨など三カ国守護職に復帰した。
本書は嘉吉の乱を中心に据え、室町幕府の変質、十五世紀の政治秩序の崩壊過程を論じたものである。応仁の乱以降、越前朝倉氏、出雲尼子氏のように、正式に守護に任じられていない者が領国支配を展開した。決して将軍や守護の意味がなくなったわけではないが、既成の政治的な枠組みが崩れ出したのである。その大きな契機となったのは、嘉吉の乱であるといっても、決して過言ではないだろう。
強靭な秩序に穴をあけた大事件
『嘉吉の乱――室町幕府を変えた将軍暗殺』自著解題
六代将軍・義教が殺害された。首謀者は播磨などの守護・赤松満祐。義教治世下、天災が続き疫病が流行し土一揆が起こるなど世が乱れる中、「万人恐怖」の圧政をしいたことで「自業自得」とまでいわれた暗殺事件の全容を、赤松氏の視点から描いた『嘉吉の乱――室町幕府を変えた将軍暗殺』の自著解題です。(PR誌ちくま10月号より転載)