「♡」
「マッチありがとうございます!」「プロフ見てよければ返信ください♡」
Tinder には菅田将暉と山﨑賢人がいっぱいいる。で、そういうのはだいたいヤれる。いまマッチしたのは通算三人目の山﨑賢人だった。
私は男としかマッチングしない設定にしているからファクトチェックできないけど、橋本環奈と広瀬すずも一定数生息しているらしい。でもそういうアカウントの裏にいるのはだいたい愉快犯の寂しい男か迷惑系YouTuber にインスパイアされたキッズで、マッチしたところで文脈も知性もセンスもないおちょくりメッセージしか来なかった、というようなことを二人目の菅田将暉が言っていた。そんなの考えなくてもわかるだろうに、実際に確かめてしまうところが菅田将暉の菅田将暉らしさだなと思う。先月初めてヤった、たぶん来週またヤる。私のディープスロートが忘れられないらしい。
「プロフ見ました」「抜いてくれるんですか?」
「抜きますよ♡」「牛込柳町の辺りに住んでます」
「一人暮らしですか?」
「ですです」
菅田将暉とか山﨑賢人の中の男は大抵、マチアプなんて……と腐しながらもワンチャンに対して実体の曖昧な興奮を燻くゆらせている。ドラマや映画のプレス記事から無断で写真を盗用している上に、そのなかでも特にファニーな表情の写真ばかりセレクトして、こんなアカウント所詮暇つぶしっすけど? と己のダサさと肖像権侵害と名誉毀損と詐欺に予防線を張っている。その行為自体がダサいことに薄々気づきながらも性欲に勝てないからTinder をやめられなくて、マッチしたら♡のスタンプで物陰からうかがうように性欲を表明してくる。だからプロフィール文で後腐れのなさをちらつかせればいとも簡単にヤれるのだ。そして後腐れのなさを望んでいたくせに、二度目は自分から連絡してくる。Pairs では実家の犬とのツーショまで動員して真剣な恋愛を募集してるくせに。
「今日行っていいやつですか?」「溜まってて笑」
「はい!」「何時でもいいですよ♡」
マイナーなスマホゲーに可処分時間の大半を捧げていて、そのざまを自虐的に話しているときが一番楽しそうだ。スマホゲーをしている男のなかでも特に、残りの可処分時間をポケモン対戦に費やしているような男が私は一番好きだった。パルデアポケモンの種族値について早口で話している姿を見ると勃起してしまう。
「そうです」「男の人としたことないんですけど、大丈夫ですか?笑」
「大歓迎です♡」「そちらからは何もしなくて大丈夫ですよ笑笑」「一方的に抜きますね」
チー牛という概念が生まれて、それまで曖昧だった情けなさに輪郭が与えられて、本当に良かったと思っている。そういう男たちには一生ジェネリックコンバースみたいなスニーカーを履いていてほしいのに、最近のチー牛たちはちゃんとウォーキングシューズじゃないほうのニューバランスや型落ちしたエアマックスなんかを履いていて小賢しい。
チー牛がチー牛を脱するためのバイブルがプチプラ化されている現状は本当に嘆かわしい。私が二十歳だった五年前には起こり得ない現象だった。どのSNSを開いても簡単に垢抜けにアクセスできてしまうから、大抵の男はシステマティックな購買行動によってそれなりの服装を獲得することができてしまう。
だから本物は基本的にマッチングアプリ上には生息していない。それが私はいちばん悲しい。Tinder のチー牛たちは大半がナードとカルチャーの交雑牛なのだ。それもまあかわいいけど。
「顔写真とかって見れますか?笑」
「いいですよ♡」「カカオかインスタで送ります」
「じゃあカカオで」
「(カードが送信されました)」「カカオこれです!」
「追加しました」
カカオで自撮りを送る。既読がついて三十秒が経ったけど返信はこない。Tinderに戻ると男のアカウントは消えていて、カカオともどもブロックされていることを知る。二日に一回はこうして拒絶されているのだから、もうほとんどなにも思わない。
雲散した性行為に思いを馳せることもなく、親指は新しくマッチした男にメッセージを送りはじめていた。一連の流れに感情の介入する余地はない。「はじめまして!」「プロフ見てよければ返信ください♡」ここでブロックするような男はそもそも求めていないのだから。
毎日右スワイプ。マルチとポンジスキームはしっかり見抜いて律儀に左スワイプ。そのマメさをちゃんと応用すれば私のような人間に引っかからずとも私欲を満たせそうなのに、だけどそれをしないからTinder のチー牛たちはかわいい。学生時代のイケてない経験を引きずっていて、容姿に強いコンプレックスを抱いている。でもそのコンプレックスを攻撃性に変換するのは終わりムーブだという現代的なモラルをちゃんと搭載しているから、私の容姿に言及できないままおずおずと射精するしかない。そういう男がいい。私はリベラルに乗っかって彼らの性を搾取している。
「フェラしてくれるんですか?笑」
「しますよ♡」
話の切り返し方からたぶん初めてではないな、と思う。さっきとほとんど同じ流れで自撮りを送ると「今日お願いしたいです!」とオファーがきた。
せっかくだから男の顔も送ってもらうけど、やっぱり交雑牛だった。ぶらさげたネックレスの輝きとは裏腹に、表情筋の節々に抑圧を受けてきた人間特有の卑屈さが垣間見える。私がそう思いたいだけかもしれない。まあ私のビジュアルを受け入れるということは、マインドはしっかりチー牛なのだろう。顔写真のスクショを撮る。
こちらの既読を認めてすぐに写真を送信取り消ししていたけどもう遅い。カメラロールを開いて、スクショを拡大して細部まで眺める。きっとPairs なんかで使っているんだろうな、という類の、第三者のディレクションが入った写真だった。プロフィール写真のクオリティとコミュニケーションの自然さは反比例すると思う。
Tinder には女で登録している。男で登録したほうが至る確率は高いのだろうけど、あちらの世界は私のようにノンケ喰い目的のゲイたちがゾンビのごとく徘徊する地獄になっているとTwitter で見た。ゾンビ同士でマッチングしてしまうことのほうが多いらしいし、それならゲイ専用のマッチングアプリに行けばいいじゃん手段が目的に変わる前にさ、と思ってしまう。そっちも登録しているけどもう半年くらい開いていない。
だから私は、幻想の尻を追い疲れた男が降ってくるのを、ここで女の振りをしながら待っている。プロフィール写真は南国の海とラグジュアリーなホテル。当然どちらもインスタのキラキラハッシュタグでディグったものを盗用している。プロフィールで「実は男でーす」と明かしているダーティさだけに終始しないよう設定したものだけど、クリーンすぎて逆に影を際立たせてしまっている気もする。今のところ、なにか言われたことはない。
「フェラしてください笑」
「はい♡」
本当は「クラスの陰キャグループにいるぽやぽやしたかわいらしい男の子」という概念に股間を押しつけてくるような男にだけリーチしていたい。ぽっちゃりと言われないぎりぎりの肉付きも、ケミカルウォッシュの切り返しデニムも、マニッシュショートa.k.a. 悠仁親王リスペクトな髪型もすべてブランディングになるのだと高専で学んだのに、時代の移ろいとともにその刀は錆びついてしまった。
下ぶくれでぼやっとした容貌の私が、濃いメイクやウィッグで女のにおいを演出せずともイマジナリーラブドールとして振る舞えていた時代はもう終わったらしい。たった五年で成功体験は情弱の証左になっていた。いなたい見た目で向けられた性欲に鈍感なポーズを取っておけば、みんな重篤な『高専病』を患ったとしても安心して私でシコれていたのに。
似合っていないセンターパートとカーゴパンツ。令和五年に再定義された標準にあわせた髪と服で、私の顔が現代的でない分を差し引くと、平均よりすこし下がった完成度でまとまる。
そのすべてがノンケ喰いに最適化した結果だった。昔のようにチー牛たちの最後のシェルターでいるために、私はかつての自分を手放しつつある。
「十九時くらいに行ってもいいですか?」
「いいですよ」「ちなみにストレートの方ですか?」
「そうです」
「彼女とかいたり?笑笑」
「いないです笑」
いるわけがないのに訊くとなぜか喜ぶから毎回訊くようにしている。ワンサイズ大きなポンプフューリーのなかで私のつま先が「きっと童貞だよ~ん」とかぽかぽ奏でる。右耳のAirPods も「だよね~」と呼応する。なんにも悪くないよ、童貞は。私だって当然童貞だ。
あと住んでいる場所が防衛省の近くだと言ってもなぜか喜ぶのだけど、これに関してはまじで喜ぶ理由がわからない。なにもかも守れていないから私のところに来るんじゃないの。
Tinder のことばかり考えていたらレジでTinder の画面を提示しそうになって最悪。慌ててPayPay に切り替える。目を限界まで細めると両者のアプリアイコンがほとんど同じに見えてくるのだから仕方ない。この二つのアイコンが隣に並んでいるのは、単純にインストールしたタイミングと、私がホーム画面を整理していないからだ。
食器スポンジのもこもこした面にカビが生えたから新しいのを百均で買った。毎回ストックを買っておこうと思って忘れてしまう。あるいは、忘れた振りをしてしまう。二個入り三個入りのものを買えばいいのに、すこし偉そうなパケに入った一個入りのものばかり買ってしまうのは、生活に根ざした期待の絞りカスだともいえる。あの部屋に営みの体臭なんてほとんど存在していないのに。
洗剤なしでも洗える、という謳い文句のスポンジに、いつもこれでもかと洗剤を垂らして使う。店を出てからラップを買い忘れていたことに気づいていらいらする。舞い戻った店内で、ペイペーペイペー、と何度も脳内で唱えていたら一周回ってTinderが顔を覗かせてくる。
Tinder を開いたけど新規のマッチもいまやりとりしている男からの返信もなかった。当日敢行が決まったはずのセクアポの詳細が宙ぶらりんになっていることにまたいらいらする。きっとなにもかも梅雨のせいだ。
トイレの赤カビが五日で再生されるようになった。これは梅雨だけのせいじゃないかもしれない。ラップのついでに、擦るだけで赤カビが落ちるブラシも買った。たぶんトイレマジックリンまみれにして使う。
ホーム画面はだらしなくても部屋は常に綺麗にしている。常軌を逸した綺麗さじゃないとこういう男は性欲の処理を躊躇しはじめるから、トイレタンクの水受けや洗濯機の隙間に溜まった埃、洗面所やお風呂の鏡の水アカなんかまで入念に拭きとっていく。
使用後の便器ブラシを洗い流すついでに洗面台のカーブの部分を擦ってみたりする。同じようなマテリアルなのだから兼用で問題ないだろう、という判断だ。この部屋に私以外の人間が立ち入るのはちょうど一週間ぶりだった。
ものがなければ散らかることもないというアグレッシブな発想を採用して、見える範囲に最低限の家具以外のものはなにもない。八畳ワンルームのがらんどうは、エアビの部屋なんかよりよほど浮世離れしていると思う。
入念に舌苔を取りのぞいた。フロスは二周目の前半でちぎれたから諦めた。リステリンは紫の甘いやつが好き。胃から香り立つというバラのタブレットを舐める。
「駅着きました」「住所教えてもらっていいですか?」
「東京都新宿区╳╳╳╳╳╳╳╳」「501号室です♡」
「了解です」
「ムラムラしてます?笑笑」
「だいぶ笑」
「対よろです♡」
そんな感じで今日の大半はTinder とセックスとその準備に支配されていた。テレビのないこの部屋に日曜の終わりを告げるのはちびまる子ちゃんでもサザエさんでもなく、性経験に乏しい男がどうしようもなく漏らす吐息なのだった。
オートロックが鳴ってもモニターに人間は映っていない。無言で鍵ボタンを押すと、ガラスの扉に一瞬だけ黒いパーカーが反射した。エントランスを抜けてエレベーターのボタンを押すまでの動線を脳内で再生したあとは、緊張感がエレベーターを駆け上ってくるイメージにバトンタッチされていく。
新規の男、Tinder 名「あ」のボクサーパンツからビビッドすぎるダウニー臭がして、辟易。十九歳、大学生、身長5ft9in、同い年か年上の優しいひと募集、マッチしたらいいことあるかも、などとうそぶいていた。
脱がしたあともダウニーの甘さが陰毛に絡みついていて、いい加減にしてほしい。男と会うのは私が三人目らしいけど誰も指摘してくれなかったのだろうか、と指摘する気のない自分を棚にあげて憤る。グレーの薄汚れたニューバランスを履いてるくせにボクサーパンツだけ浮かれあがった赤ベースのミッキーマウスなのにも、部屋の照度に細かく注文をつけてきたことにも今更腹が立ってきた。もうちょっと暗く、を繰り返した結果ほぼ闇になった部屋で、夜目が「あ」の性器を血管まで鮮明に描写する。
「めっちゃうまいっすね」
「そう?」
前の男ふたりと比べて言っているのだろうか。「あ」の「あ」から浸透圧の異なる液体が滲み出てくる。唾液でもなく、喉奥を亀頭が掠めたときに採取される痰でもないやつが味蕾に触れて、それで私の興奮も高まっていく。勃起していることが悟られないようにXXLのTシャツの裾をぐっと伸ばしてカーゴパンツに被せる。
「あっやばいす」
目をかたく瞑った「あ」が情けない息を漏らす。自分で吐いた息に興奮しているように、「あっ、」さらに漏らす。薄れていたダウニーの面影を押しのけて、酒臭さが存在を主張してくる。緊張してたんで、と「あ」がストゼロを一缶飲んできていた。これならいけるかも、と思って訊いてみる。
「あのさ、フェラしてるとこ撮ってもいい? きみの顔は絶対に映さないから」
え、と固まる「あ」。
「だめ?」
勃起した性器の顚末と容易に想像できるリスクとを天秤にかけているようで、無言の時間が数秒流れる。舌で亀頭に触れて、その天秤に切り込んでいく。滴り落ちる私の唾液の量だけ天秤はバグっていく、そんなイメージで。
とどめに乳首を舐めると「あ」の緊張は簡単に切れた。「あっ」再び吐息。オートロックのカメラに姿を映さなかった用心深さに、性欲が靄をかけていく。
「Twitter にあげてんだよね。ほらこれ」
ベッドの端に転がしていたiPhone を手にとって、「あ」が来るまで開いていたアカウントを見せる。「あ」はおそるおそる液晶に指を滑らせて、私がインターネットに垂れ流してきた欲望とインプレッションの詐取を眺めていた。
液晶の上で再生される動画と呼応するように、音を立てて目の前の性器を刺激する。バーチャルとリアル、だけどどちらも私の口から発されている音のゆらぎに、酒臭い部屋のなかであらゆる平衡感覚が揺らいでいく様子が具体的なイメージとして想起された。
「ノンケ慰め隊たいちょー、って。やば、変態じゃないすか。しかも結構いいねついてるし」
アカウント名を読み上げた「あ」に、俺変態かな? と重ねると黙ってしまった。変態の私に慰められているお前も変態なんだぞ、と思う。
「これ相手の許可ちゃんと取ってんすか」
「もちろん。顔は映してないでしょ。あげるの嫌だったらあげないけど」
いやでもやっぱり動画は……と、飲酒と性感にふるわれてもなお残った最後の理性にちゃんと拒絶されて、ITリテラシー教育のめざましい進歩と自分のテクニック不足を痛感する。
「ごめんなさい、やっぱ無理です」
「じゃあ音だけだったらいい? 動画じゃなくて音声」
んー、とか、えー、とかごにょごにょしたあと、私が性器から手を離したら惜しくなったのか「まあ音だけなら」に帰着した。
iPhone のカメラアプリを立ち上げる。「録るね」と宣言して、カメラを下に向けて録音を開始した。
「なんかサークルとか入ってんの?」
「今年からフットサル入りました。友達ほしくて」
「あー、確かにフットサルっぽいね。楽しい?」
私は思ってもいないことを言っているときが一番楽しいな、と心のなかで付け加える。
「まだあんまり馴染めないんすよね。入ったばっかってのもあるけど、二年から入ったから周りはもうグループできてるし、そもそもみんな陽キャすぎてしんどいっていうか。だからあんま行ってないっす」
たまらないな、と思いながら意識的に声のトーンを下げる。「なるほどね」前に行為音声をツイートしたとき、オカマ声萎えますやめてくださいとリプライがきたことを思い出したからだ。クソリプおじさんやノンケ喰い同業者なんかよりもASMR警察が一番厄介な存在なのかもしれない。
「大学でなに勉強してんの?」
「え、なんかマーケティングとか? 商学部なんでまあそっち系です」
上も脱いでよ、と言うと「あ」は躊躇なく脱いだ。「あ」の薄っぺらい裸体には若さと愚かさだけが情報として貼りついていて、そこに大学生やフットサルといった情報を付与するだけで無断転載スパムなんかとは一線を画すインプレッションを叩き出すだろう。若さとはポテンシャルなのだ。
いちゃいちゃとかしないんすか、と唐突に言った「あ」に、なんで? と返す。
「前に会った人はしたいって言ってたんで」
「どっちでもいいよ」
私に気を遣っているつもりなのだろうけど、全然やりたくなかった。少なくとも録音されている間は性欲に支配されたふてぶてしいノンケのままでいてほしい。いつもよりリップノイズを意識して、音を立てながら舐めると「あ」の喘ぎ声とのグルーヴでノってくる。
録音をはじめて十分も経たないうちに「あ」は射精した。掃いて捨てるほどある逢瀬のひとつ、明日には記憶から追いやられている類のありふれた行為だった。
枕元のiPhone を意識しながら「きもちよかった?」と尋ねると、「あ」は「まじでやばかったす……」と放心しながら天井の向こう側を見つめていた。
ばつの悪そうな顔でティッシュボックスを受け取った「あ」は性器、お腹、胸の順番で拭きとって、ティッシュボールを形成したあとその表面でさらに尿道の辺りを撫でた。それそのまま捨てるつもり? 口には出さず黙って睨んでいると、案の定袋を入れてないゴミ箱に投棄されて、すこし不快になる。
「バイなの?」
「いや、自分ではストレートだと思ってんすけどね。まあ抜いてくれるなら男でもいいや、みたいな」
「Tinder だと多いでしょ、男の人」
「そんな多いですか?」
「あー、男とマッチする設定にしてないとか?」
「してません。あ、全然関係ないんすけど、カカオの名前って本名ですか?」
本名じゃないよ、と返すと「あ」はそれ以上追及してこない代わりに、「自分はカズ、です。カカオの名前もフェイクです」と続けた。返報性の法則に後ろ足で砂をかけて私は名乗らない。射精したあと特有の魚の目がなにかを乞うているようだったけど、気づかない振りをしてトピックを変える。
「女の人とは会えてる?」
「全然だめっすね。まずメッセージが続かないです」
「ヤリモクじゃないの? Tinder だったら秒で見つかりそうだけど。割り切った関係ならメッセージもなんもないでしょ」
「いやー、いきなりヤリモクだけってのもなんか恥ずくないすか?」
百万回は聞いた言い訳だった。こんなことを恥ずかしげもなく言ってしまう時点で童貞卒業は遠いだろう。あーまあ恥ずいよね、と適当なことを言って録音を停止した。きっとここは使わない。
カズがベッドの下に散らばった洋服を拾い上げて着ている間に、先ほどの音声を流してみる。ボリュームをあげるとカズの濡れた声と私のリップノイズがどちらも割れて、きゃんきゃんと不快さばかりが際立ってしまう。数分前までこの場所で行われていた行為だとは思えないくらい、湿っぽさの欠落した音だった。
「やば。恥ずいですって」
「これTwitter にあげてもいい?」
「いいですけど。そんなん需要あるんですか?」
「動画よりは反応弱いかもね」
「まあそうですよね」服を着終えたカズが立ち上がる。「また暇なとき来てもいいすか?」
「うん、また来て」
「仕事は土日休み? ですか? 社会人ですよね?」
「そうなんだけど、副業もしてるから土日の夜は結構埋まってるかも。今日はたまたま休みだったんだけど」
「うわ、ワーカホリックっすね」
「まあ趣味みたいなもんだから」
副業の内容に切り込まれたらどうやって躱そうか考えていたけど、さらっと流された。さっき名前を教えなかったのが効いているのかもしれない。私の無言の圧をくみ取った繊細さのせいで録音を断れなかったのだとしたらすこし可哀想だなと思う。可哀想でもTwitter にはあげるけど。
玄関先でカズがドアを開けると濡れたアスファルトのにおいがした。内廊下だからリアルタイムのにおいなのか溜めこんだものなのか判別がつかない。カズが傘を持っていないことに気づいたけど、うちもビニ傘一本しかないし渡したくないな、と咄嗟に思ってしまう。「じゃ、また」「じゃあね」また会うかもしれないし、一応の礼儀として足音が聞こえなくなるまで施錠はせずにいた。こんなことをした後でどこまで意味のある気遣いなのかはわからない。
小鼻を搔くと指先から乾いた唾液の臭いがした。洗面所で手を洗って、ついでに口もゆすぐ。私の体からはカズの痕跡が消えたけど、部屋にはまだアルコールの残り香が漂っていた。カズの形にしわが寄ったシーツをなんとなく伸ばしてみる。寝転ぶとダウニーのにおいがした。このなにもない部屋は、においを塗り替えられただけで簡単に私の部屋じゃなくなってしまう。居心地の悪さと、他人と粘膜接触をしたときにだけ感じる独特の疲労感で起き上がれなくなる。
さっき録音した音声を何度も再生しているうちに眠ってしまっていた。聞き慣れてしまえば性行為の音声だってただのアンビエントでしかない。
あと一時間で日曜日が終わる。動画編集のアプリを立ち上げて、ずっと真っ暗な動画を、音だけを頼りに短く編集していく。カズの顔や体、性器についての情報は既に私の記憶から抜け落ちつつあった。
(続きは単行本へ/2024年10月28日頃発売)