ちくま新書

哲学的に考えるとはどういうことか
『つながりの哲学的思考』序章第1節「哲学的思考にむかって」

自分の頭で考えることはなぜ難しく、なぜ大切なのか。〈つながり〉という言葉を糸口として、哲学的思考がもつさまざまな広がり、その可能性を明らかにしていくのが、米山優『つながりの哲学的思考――自分の頭で考えるためのレッスン』です。同書から、序章第1節「哲学的思考にむかって」の一部を抜粋します。

†考えるとはどういうことか
 これから哲学的思考の話をします。それも〈つながり〉ということをめぐってです。
 つながりはいろいろなモノやコトの間にあるはずですが、その実際はゆっくりと提示することにして、まずは哲学的思考のほうから話をはじめましょう。
 しかし「哲学とは何か」という問い自体が哲学上の大問題であることからしても、〈これが哲学的思考だ〉などと大上段に振りかぶったところですぐに頓挫しそうです。
 それに〈哲学的思考〉などというと、その一方で〈哲学的ではない思考〉があることにもなりそうです。思考という営みにそういう区別があるとして、その違いはどんなところにあるのでしょうか。
 いや、そもそも人間が考えるのはどういうときでしょうか。暇なときでしょうか。でも暇なときにはぼんやりとして、むしろ何も考えないのではありませんか。
 そうではなく、「暇だといろいろ余計なことを考えてしまうから、忙しいほうがいい」なんて言う人もいます。なるほど。
 そうだとすると、そんな「余計なこと」など考えたくもないのに、それでも考えてしまうという場合がありうるわけですね。そして忙しくしていると、そんなことを考えなくてもすむのだ、と。
 一理ありそうです。忙しくしているとき、たとえば自分の脚を使ってそれこそ全速力で走っているときに、「存在って何だろう」なんていう問いなどあまり立てそうにはありません。数学の難しい問題について考えを進めるのも、ゆったりと座って筆記用具を手にしてしかできないような気もします。すると〈考えること〉と〈身体を使うこと〉との間に、なんだかつながりがありそうな気がしてきますね。
 いずれにしろ、物事がうまくいかない(つまりうまく行動できない)ときに考え込んでしまうというのは日常的にありそうな事態です。そして、仕事でも何でもいいのですが、忙しく行動すると、そういう余計ともいえそうな考えは消えていく、と。
 すると、〈考えること〉と〈行動すること〉との間には、その二つが両立しないかもしれないという事態も含めて、密接な連関がありそうです。そういうことについて検討することからはじめてみましょう。

†意識の度合い
〈考えること〉について考えてみると、物事が支障なく運んでいるときにはどうも人は考えごとなどしないらしいのです。自分の関わっているその物事に人は焦点を合わせていて、それこそ当該の事柄を意識もせずに前に進めているのが普通のようです。脇目も振らずに行動しているという事態ですね。
 それに対して自分のやっていることを意識する度合いがことさら強くなるのは、いくつもの選択肢があって、そのうちのどれを選ぼうか決めかねているとき、つまり迷っていて行動できないでいるときだったりします。
 自分が選択する可能性のある行動がいくつも思い描かれているのに実際の行動には移れない場合に、自分の行動を〈意識する程度〉は強くなる。「意識は躊躇ないしは選択を意味する」とアンリ・ベルクソンは書きました(『創造的進化』)。ですから、私たちの行動が意志的に選択するものでなくなり、躊躇などなく自動的になったときに、逆に意識は退いてしまうようなのです。事実、夢遊病の場合には意識はなくなっていそうですよね。意識は自らの活動に関わる「実践的な判別」を本質とすると言えそうです(ベルクソン『物質と記憶』)。生物の意識は潜在的な活動と現実の活動との算術的な差であると定義できそうだとも彼は書きました(『創造的進化』)。考えることと行動との間の隔たりがなくなると意識は消えるというわけです。
 人が習慣的な行動をする場合は、考えなくても行動できてしまうために、思考と行動との間には隔たりがありません。意識などしないでそれを遂行しています。〈あれっ、鍵は閉めたっけ〉とか問う事態は、〈鍵を閉めよう〉と思ったけれどもすぐに〈鍵を閉める〉という行動が起こってしまったために生じることなのです。
 さきほど〈可能性のある〉とか〈潜在的な〉という言い方を強調しておいたことを憶えておいてください。このあたりの事柄については、のちほど少々詳しく考察します。ここではまず、こうした考察の延長線上で動物の「本能」といわれるものに注目してみましょう。

†本能的な動き
 〈本能的な動き〉というと、ある特定の場合にどういうふうに行動するかがほぼ決まっているものだと思いませんか。選択の必要がほとんどない、と。だからこそ迷わないし、またたいていは成功します。言い換えると、本能的な行動に則った行動をする生物はそのままで自らの生存の条件に適応して生きることに成功しているわけです。
 昆虫を観察したファーブルは、ある種のスズメバチが獲物の青虫を生きたまま食料として貯えるために、殺さない程度に刺して麻痺させることを知っているのに感嘆したといいます(アラン『人間論』)。しかし、アランはそれについて「できるように行動したのであって、知っているように行動したのではなかった」とつけ加えます。そうやって、知を意識することなどなくとも生きることに成功しているのです。原生的な生物といえども私たち人間と同じように生存の条件にうまく適応しています。その生物もそこで生きることに成功しているからです(ベルクソン『精神的エネルギー』)。
 そうだとすれば、その成功を維持するだけでよさそうですし、あえて違うあり方へと進化する必要もない気がしますよね。「生存の条件に適応して生きることに成功しているこの生命が、なぜ複雑になっていったのか」と、生物進化に関連してベルクソンも問うています。現に成功している路から外れるような危険をわざわざおかすのはバカげているかもしれないでしょうから。
 実際、ベルクソンは生物の進化が袋小路に陥って足踏みを始める理由をそこに見ています。うまくいっているのだからそのままでいいじゃないかというわけです。成功が進化を止めるのです。それに対して彼は、「一般的に生命全体の進化も人間社会の発達や個人の運命の展開と同じことで、そこでは最大の成功は最大の危険を買って出たものに与えられてきた」と書いています(『創造的進化』)。
 本能は、いわば努力して探しもしないのに見つけてしまうような成功を手に入れて、そこに座り込んでしまったのです。もう探しません。失敗しないのですから。ところが人間は失敗します。悩みます。だから解決策を探すわけですね。
 そうだとすると、さきほどからの議論に則れば、動物は人間と比べると〈意識の強さの程度〉が低いなんていうことが言えそうには思いませんか。つまり、意識が浮かび出ようとするその刹那、行動が成功してしまって隔たり(算術的差)を生じることがないと、意識は消えてしまいそうです。もし〈本能的な知〉というものを認めるとしても、その知は意識されるよりもむしろ自動的に演じられてしまう。その結果、本能的な知に則った行動は成功するけれども、当の知そのものは意識に浮かび上がってきません。こうしてベルクソンは、知性というものはどちらかといえば意識に向かい、本能は無意識に向かうと想定してよかろうと議論をまとめるのです。

†植物的な知
 では植物はどうでしょう。ほとんどの植物は特定の場所に根を張り、その根から養分を吸い上げることによって生きています。人間がサプリメントを摂取しているわけではないのですから、そこには生育に必要な〈窒素、カリウム、リン、硫黄、カルシウム、マグネシウム、鉄その他合計17種類の必須栄養素のうち、今日はどの養分にしようかな〉なんていう選択はありませんよね。また、洗濯物を干すわけでもないのですから、〈今日は晴れているけど、光合成はやめておくか〉などという選択もありません。
 つまり、そこにはそもそも自らの営みに関わる選択など成立していないようにみえます。そして意識が選択を意味して、意識の役割は決断のお膳立てをすることにあるとすると、植物のように自発的に動こうとせず決断しようともしないものに意識があるというのはどうも疑わしいのです(『精神的エネルギー』)。けれども、そこにおいてさえ自分を動かす機能がないというよりもむしろ眠っているのだとベルクソンは考えます。
 実際、動物を高等なものから下位のものへと見ていくと、次第に漠然としたかたちにはなるけれども、選択の機能、つまり一定の刺激に対して多少なりとも予想外な運動で応える機能が働いていることがわかります。ベルクソンはアメーバの偽足の動きを例として掲げています。
 植物は眠っているなんていう考え方は面白いですよね。「眠るとは無関心になることだ」ともベルクソンは書いています。人間も無関心になる程度に応じてちょうどその程度に眠るのだ、と。彼は、子どもに添い寝している母親は雷鳴も聞こえないことがあるのに子どもの寝息の変化で目を覚ますだろうという例を挙げて、子どもに対してはその母親は実際には眠っていないのだと言うのです。このことを一般化すると、関心を惹き続けるものに対しては私たちは眠っていないのだとも言えそうです。この論点は重要だと思います。関心がなくなればその事柄については眠ってしまいそうですから(これは授業中や会議中でも当てはまることですね)。

†受動的な思考と能動的な思考
 さて、そろそろ哲学的思考に焦点を合わせましょう。
 あなたはいろいろなことに関心がありますか。アリストテレスは『形而上学』という本の冒頭で「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」と書きましたが、それは本当でしょうか。彼はその断言に続けて、「その証拠としては感覚への愛好があげられる」と書いています。
 しかし、感覚的なものとは異なる〈知的なもの〉への好奇心がそこからどう導かれるのかは判然としません。たとえばソクラテスが死を賭しても求めた「徳」の話に、「感覚への愛好」がどうつながるのでしょうか。一般に人間にはそういう知的なものへの好奇心などそれほど強くないようにも見えます。むしろ食糧確保とか戦争の危険とか、苦痛を避けるためとか、さらには死を避けるためとか、生命感覚に近いところで必要に迫られて知ろうとすることがほとんどなのかもしれません。
 それでも〈知的なもの〉への好奇心は止むことなくアリストテレスから私たちまでつながっています。なぜでしょうか。人生とかに思い悩んだとき、意識をそらすために感覚的な快楽に身を委ねる人もいるでしょう。もちろんそれも一時的な気分転換には有効かもしれません。しかしそれですべてが解決することはなくて、考える必要が生じることもありえます。でも、そういう必要を感じることからすぐに哲学的な思考が始まるわけではないと思います。なぜなら、それは考えさせられているだけで、自分から進んで何かを考えようと意志しているわけではないからです。そういう思考は受動的なものでしかありません
 悩んだり、苦しんだり、悲しんだりする状態は心が受動的になっている状態なのだとデカルトは述べました。「情念」に囚われているという状態です。『情念論』という彼の書物はLes Passions de l’âme、まさに「心のいろいろな受動」なのですから。悩みや苦しみや悲しみなどが生じるもととなる事柄への想いを機縁に、身体には溜め息とか力みとか動悸とか食欲不振といった不健康な状態が引き起こされます。それらのいわば混乱に心が引きずられて、その混乱状態に応じた考えが自分の意志とは関わりなく生じてしまうわけです。それが情念です。

†情念からの離脱
 そうだとすれば、冷静に考えるためには〈意識する度合い〉が強まるだけではなく、心に能動性を取り戻す作業も必要な気がしますよね。
 デカルトも、激しい情念に囚われているとき人間の理性は何もできないのであって、身体の混乱によって生じる疲れなどによって情念がある程度は沈静化するのを待つ必要があるという趣旨のことを書いています。荒れ狂っている情念には、人間がもちうるはずの能動性である理性は無力なのです。ですから、哲学的に考えるためにもこうした心身の落ち着きはきっと必須なのでしょう。
 では、少々落ち着いてきて理性がある程度働くようになったらどうしたらいいのでしょうか。情念は私たちがこれについて明晰で判明な観念をもつや否や情念であることをやめる、とスピノザは書いています(『エチカ』第5部定理3)。〈情念であることをやめる〉というのは、言い換えれば心が〈受動的であることをやめる〉ということでしょう。いわば自らの力で形づくる認識という能動的な働きによる心の解放がここにはありそうです。
 実際、スピノザはそれを哲学に求めたに違いありません。〈認識による解脱〉とまで言ってしまってもいいかもしれませんね。大乗仏教の言う〈すべては空と見定め、煩悩を排して解脱する〉とでもいうような態度と似てきます。情念は煩悩みたいなものですから。
 〈そんなことができるのか〉と問いたくなる人もいらっしゃるでしょう。完全には無理なのかもしれません。けれども少なくとも次のようには言えそうです。

スピノザは言っている。人間が情念をもたないということはありえない。だが、賢者は魂のなかに幸福な思想の領域を大きく形づくっているので、そのまえでは情念がおよそ小さい領域しかもたないのだ、と。(アラン『幸福論』)

 そういうことをめざそうと決断したとき、まさに情念という事柄を題材にして、哲学的思考とそれを基礎にした生き方の探究の出発点に立つのです。ここに至って初めて、放っておいても考えてしまうのではなく、あえて自分から考えることが始まるのです。
 

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