鈴木家の箱

乳房縮小術

胸をとる決心をしたまみこさん。「日本人では珍しいレベル」の乳房肥大は、思ったより大手術になりました。

 そう思ってからの決断は早かった。傷は残ってもいい。最悪乳首がなくなってもいい。よし、そこまで思えるなら手術をしようと決めた。
 旦那も家族も私の苦しみを知っていたのでみんな賛成してくれた。あとは病院を決めるだけだった。
 そんなに大手術なのに局所麻酔でやる病院や、日帰りで入院なしの病院もあった。とにかくアフターケアがしっかりしている病院、そして乳房縮小術の経験が多い医師、のふたつの条件をクリアするところは、当時はひとつしかなかった。
 インターネットで探し当てたその大学病院の医師はアメリカで乳房縮小術を何百件も経験したという医師だった。手術は全身麻酔で行われ、術後は1週間入院してアフターケアをしっかりしてくれる。何より設備の整った大学病院ということで安心できた。
 カウンセリングでは多くの症例写真を見せてくれて、ことこまかに術法を説明してくれた。アメリカでは乳房縮小術をする人は毎日のようにいたという。見せてくれた症例写真はお世辞にも美しいとは言えない大きな傷のある胸だったが、それがかえって私の覚悟を固めた。最初からこんな傷ができると分かっていればキレイに治るという期待もない。見た目の回復に期待をする手術ではないのだ。
 しかし、当たり前といえば当たり前だが、みんな確実に胸が小さくなっていた。私もこうなれるのかもしれないと思うと胸が躍った。長年の苦しみから解放される奇跡の日が来るのだ。決断して動き出した自分に拍手を送りたい気分だった。
 その医師は1年後に定年を迎えるということで、アフターケアも考えたら早々に手術をしなければいけない。定年後も個人医院で定期検診をしてくれるということだったが、なるべく大学病院にいる間に済ませたいと思い、すぐに手術の予約を取った。
 カウンセリングから1カ月もしないうちに手術の日がやってきた。前日から入院して次の日に手術。手術から6日後に退院というスケジュールだった。
 前日は血液検査をしたり、デザインのマーキングをしたりしてゆっくりと過ごした。
 マーキングはすごく面白かった。まず鎖骨の中心から二等辺三角形を書いて、新しい乳首の位置を決めるのだ。そこが本来の位置らしい。私の乳首はそれよりだいぶ下にあった。
 乳首の位置が決まったらそのまわりに乳輪の円を書き、そこから胸の半分くらいの位置まで斜めに2本線を引いた。胸の上にボーリングのピンのような絵が書かれて、斜線が引かれた。
 そのピンの中の肉をすべて切除するという。がっつり乳首も入っている。本当に乳首を取るんだなぁと実感すると少し恐くなったが、マーキングされてる自分の胸が面白すぎてそれどころではなかった。その日はマーキングしたまま就寝し、次の日にそのマーキングに沿って手術をする。
 夕方友達がお見舞いに来たので胸のマーキングを見せると、大爆笑していた。「乳首上すぎない?」と言っていたけれど、正確な二等辺三角形だ。上すぎるわけがない。
 友達と二人、爆笑しながら入院ベッドのカーテンの中でいろんなアングルから何枚も写真を撮った。今日でこの胸ともおさらばだ。20年来のおっぱいにお別れを告げて眠りについた。

 次の日は軽い検診があったのだが、担当医とともに若い女性の医師が一緒に来た。「このマーキングのここを切るから」とその女性医師に教えていて、「え……まさかこの女性がやるの? 経験なさそうだけど?」と不安になった。
 私の不安を読み取った担当医は「右側は彼女が縫うから。ちゃんと見てるから大丈夫だよ」と私に言った。
 え……嫌だ……アメリカ帰りの経験豊富な先生がやってくれると思ってたのに寝耳に水だ。でも女性医師は熱心に私の胸を持ち上げてマーキングを確認している。
 終わった……と思った。大学病院とはそういうところだ。医師の勉強の場でもあるのだ。日本で数少ない乳房縮小術をするのだから勉強のチャンスに違いない。
 私は諦めて運命に身を委ねるしかないと思った。よく見るとその女性はキレイに化粧をしていて、きっと繊細なセンスを持っているに違いない。きっと上手だ。そう思って彼女の腕がいいことを心の底から願った。
 手術室に入ると、そこには10人くらいの男女の若い医師達がいた。私の手術を見学するのだろう。TVドラマなんかでは手術室の上のガラス張りの部屋から見学しているイメージだったが、かなり間近で囲まれ、その中で点滴に麻酔を入れられた。
 朦朧とする意識の中で、「きっと私の手術は日本の乳房縮小術の発展の礎になるんだ。私の巨乳人生にも意味があったんだ」なんてことを考えながら意識を失った。
 目が覚めるともう夕方で、私は病室のベッドの上にいた。何がなんだかわからなくてはっと自分の胸を見ると、包帯ぐるぐる巻きになっていて、小さくなっているのかはわからなかった。
 旦那と息子と私の友達がお見舞いに来てくれていた。目が覚めたときの私は、動けはしなかったが、意識ははっきりしていて、痛みもなく、「なんだこんな感じなんだ。もう終わったんだ」と思っていた。
 それからが地獄の始まりだった。

2023年4月13日更新

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連載目次

鈴木 麻実子(すずき まみこ)

鈴木 麻実子

1976年、鈴木敏夫プロデューサーの長女として東京で生まれる。様々なアルバイト経験を経て美容サロンのマネジメント業につき、店舗拡大に貢献する。
その傍ら映画「耳をすませば」の主題歌「カントリー・ロード」の訳詞、平原綾香「ふたたび」、ゲー厶二ノ国の主題歌「心のかけら」の作詞を手掛ける。
現在は1児の母となり、父である鈴木敏夫をゲストに招いたオンラインサロン「鈴木Pファミリー」を運営する。