祖母の名は順子。「従順であれ」という願いが込められたこの名前は、二十世紀半ばの朝鮮でも多くみられたそうだ。忠清南道で生まれた順子は、祖父とともに日本に渡り、五人の子どもを産み育てた。早くに祖父が亡くなり、再婚した相手は酒びたりの暴力夫で、妻子を捨てて出奔した。その後、順子は祭祀(法事の類)をいっさい放棄した。
母の名は玉子。「玉のような子」と順子が名付けた。娘二人を連れて婚家を飛び出し、再婚した玉子は、夫とともに事業を起こし、三人目の娘を産み育てた。玉子には才覚があった。事業の成功はほとんど玉子の手腕によるものといってよかった。もし玉子が家のことを夫にまかせ、事業に専念していたらいまごろ尾張小牧にビルが建っていただろう。
「思い通りになるのは家の中だけだから」と娘を抑圧し、意のままに支配しようとする玉子とはかねてより折り合いが悪かったのだが、『82年生まれ、キム・ジヨン』の語り手である医師の妻が「思い通りになるのはあれしかない」と夢中で算数の問題集を解く姿がふと玉子に重なり、玉子にも玉子なりの物語があるのだろうとはっとさせられた。
それまで知らずにいた――知ろうともしていなかった祖母や母の人生。彼らを一人の女性として見られるようになったのはごく最近のことだ。声を奪われ、名前を奪われ、妻や母といった役割だけを与えられた女性たち、そののっぺらぼうだった顔がひとつひとつ輪郭を持ち、なにかをしきりに訴えかけてくるようになったのも。
二〇一八年十二月に日本で刊行されるや、「キム・ジヨン」は日本の女性たちにとっても特別な名前となった。「男女差別なんて昔のこと。いまの日本には存在しない」とあるときまで私は思っていたし、同じことを言う若い女性たちを何人も見てきたが、キム・ジヨンが女性たちの目を開かせた。それまで引っかかりを覚えながらもそういうものだとして見過ごしてきたちいさな出来事をキム・ジヨンを通して追体験することで、「自分は(祖母も母も)差別されていたのだ」とはっきり自覚させられた。世界の見え方が変わり、以前の自分には戻れなくなってしまった。これが文学でないならなんだというんだろう。
その後、「韓国・フェミニズム・日本」特集の『文藝2019年秋季号』が発売直後に異例の重版を果たし、フェミニズムを専門とする出版社や雑誌が誕生するなど、日本の出版業界にもフェミニズムの大きなうねりが起こった。意識的であること、フェミニストであることを隠す必要がなくなった女性作家によるストレートなフェミニズム小説が日本でも次々に発表され、二〇二二年春には映画業界での性加害の告発を受け、女性作家十八人連名のステートメントがリリースされた。フェミ的なにおいを極力感じさせないようにパッケージングに気を配っていた編集者たちも最近はアクセル全開でいきいきとしているし、「フェミニズム的な視点」を求める原稿依頼が私のもとにも舞い込んでくるようになった。キム・ジヨン以前には考えられなかったことである。
このところ作家を志す学生や若者と交流する機会が何度かあったのだが、彼らの多くがわざわざ意識するまでもなくあたりまえにそこにあるものとしてフェミニズムを捉えていることに驚かされた。長らく私は自分が古いものになること、古い価値観に凝り固まることを恐れていたが、キム・ジヨンをあらかじめインストールされた彼らがこれからどのように世界を書き換えていくのか、楽しみでならない。何度でも世界を壊し、新しく生まれ変わる。それを可能にするのが文学なのだから。
願わくば、玉子を解放するような文学作品をだれか書いてくれないものかと思うが、それは私の仕事である。