2022年9月29日、筆者はロンドンで開催されていたエネルギーカンファレンスで、天然ガス市場の現状と見通しを扱うパネルディスカッションにアジアからの演壇者として参加していた。
会議場は欧州各国のガス産業関係者やトレーダーで埋め尽くされており、熱気と不安が入り混じった真剣な雰囲気に包まれていた。会議の3日前に、独露を結ぶ天然ガスパイプライン「ノルド・ストリーム」が何者かによって爆破されたばかりであり、漏れ出したおびただしい量のガスがバルト海上に数百メートルにおよぶ巨大な泡を作り出しているさまを欧州のテレビは連日報道していた。ロシア・ウクライナ戦争開始から7か月が過ぎ、この戦争はすぐには終わらないだろうという認識も広まりつつあったし、1か月前にはロシアが「ノルド・ストリーム」を止めたことで、欧州の天然ガス価格はありえないレベルまで暴騰したばかりだった。
「ノルド・ストリーム」破壊工作が誰によって実行されたのかは今も不明だが、ロシア・ウクライナ戦争が、エネルギーインフラ破壊という形で欧州域内であるバルト海にまで及んだのである。
ソ連時代から続く欧露のエネルギー協力の象徴たる天然ガス、そして独露という欧州最大のガス需要家と世界最大級のガス生産者を結ぶ「懸け橋」が失われたという喪失感。欧州はこの冬を乗り切れるのか、一般消費者は高額なガス・電気料金を許容できるのか、脱ロシアは脱炭素を加速するのか、否、足元のエネルギー需給をバランスさせるには化石燃料に回帰せざるを得ないのではないか――。このような先行きに対する不透明感が会議におけるディスカッションの中心にあった。
欧州だけの問題ではない。欧州におけるエネルギー価格の高騰は国際市場で結ばれたアジアにも影響を与えてきた。欧州が進めようとしている脱ロシアはエネルギー供給源の争奪戦にもつながる。その中で、米国はエネルギー供給者として台頭しようとしており、中国はロシアが迫られる欧州市場代替先として、安価なエネルギー受容者として漁夫の利を得ることになる。筆者はこのような内容を統計データとともに会場で紹介したのだが、会場にいる数百人の欧州の市場関係者にぜひ問いたい質問があった。
「欧州諸国は今後ロシア産エネルギーを買わないのか?」
「ロシアに対するエネルギー供給者としての信頼の復活はありえないのか?」
最近の国際会議は便利で、プロジェクターで映し出されたQRコードをスマホで読み込めば、参加者はアプリで回答ができ、即時集計されたパーセンテージが表示できるようになっている。筆者が用意した回答の選択肢は次の三択だった。
①No(もうロシア産エネルギーは買わないし、信頼の復活はない)
②Yes, but it takes decades(再び買うまで、信頼が復活するまで相当の時間がかかる)
③Conditionally, Yes(条件によっては買うし、信頼も復活するだろう)
はたして、筆者の2つの質問に対する会場からの回答はまったく同じ割合を示す、分かりやすいものだった。それは①が97%で②が3%、③を支持する回答はなかった。③を選んで、おおっぴらに「条件次第ではロシア産エネルギーを買う」と言えるような雰囲気ではないのも確かだった。英国の石油メジャーであるシェルはロシアによるウクライナ侵攻後も安価なロシア産原油取引を継続したことで「血塗られた石油を扱う企業」として叩かれ、取引を停止し、得た利益はウクライナの人々を支援する寄付に充てることを表明させられていたからである。
この結果は、実際にエネルギー取引に関与している実務担当者の見方であり、ロシア・ウクライナ戦争を感情的に捉えているというより、経済的観点からのロシア産エネルギーに対する信頼失墜の深刻さとその回復の難しさが表れたものと見ることができる。ロシアはソ連時代から欧州にとってリーズナブルで信頼のあるエネルギー供給者であったが、その半世紀以上にわたって築かれた関係がウクライナ侵攻からたった半年余りの間に瓦解してしまったこと、その深刻さを裏付ける結果だった。
なぜロシアは長年にわたって築いてきた欧州諸国の信頼を毀損する道を選んだのか。この問いは、今なお続くロシア・ウクライナ戦争に対する根源的な問い、「なぜロシアはウクライナへ侵攻したのか」にもつながる。
本書執筆に際して当初念頭にあったのは、ロシア・ウクライナ戦争をあまり語られることのないエネルギーの側面から読み解いていくことであった。ロシアとウクライナの対立の背景にあった積年のエネルギー問題や、侵攻直後から発動された西側諸国による石油禁輸を含む対露制裁と、それに対するロシアの対抗策を読み解くことで、現在進行形で起こっている「世界エネルギー危機」の詳細とその背景について、統計データとファクトに基づき明らかにしていくことをめざしていた。
しかし、書き進めれば進めるほど、この戦争だけを切り出すことはできず、その前から始まっていた新型コロナウィルスによる経済停滞とエネルギー需要の著しい減少、その復興のための起爆剤として期待され、世界潮流となっていったカーボンニュートラルという地殻変動に触れないわけにはいかないという思いが強くなっていった。今や「世界のコンセンサス」となったとも言われる脱炭素に対する世界の熱狂について、私たちは本当に化石燃料の呪縛から解放されるのか、脱炭素社会の実現は可能なのか、その実現には何が課題となっているのかという疑問への回答も求められる。世界が一次エネルギー供給の8割弱、電源構成の7割強を化石燃料に依存する今、これらの疑問に対して、正確な情報を伝え、率直な意見を述べなければ意味がない。そして、世界のエネルギー分野で今起こっていることが日本にどのような影響を及ぼすのか、日本にはどのような選択肢があるのかについても触れなければ画竜点睛を欠くことになる。
このように、今世界で起きているエネルギー情勢を過不足なく読者の方々へ伝えたいという思いが次々と膨らみ、最終的に導き出されたのが本書の各章立てとなる。
ロシアで最も著名な19世紀の詩人のひとりであり、外交官でもあったフョードル・チュッチェフは、ロシアについて「知にてロシアは解し得ず」の詩句から始まる有名な詩を残している(原、1996)。
知にてロシアは解し得ず Умом Россию не понять,
並みの尺では測り得ぬ Аршином общим не измерить:
そはおのれの丈を持てばなり У ней, особенная стать –
ロシアはひたぶるに信ずるのみ В Россию можно только верить.
ロシアを専門とする者には広く知られているこの詩は、長くロシアを概観する者にとって否定しがたい、示唆に富むものであった。しかし、今や少なくとも西側諸国は、ロシア・ウクライナ戦争によって、ロシアを「ひたぶるに信ずる」ことはできない状況にある。
本書は「知にて解し得ず」とチュッチェフが達観するロシアについて、それでも理解すべく、これまでロシアに携わりながら得られた知見や継続的な情報収集・分析の中から、現下のエネルギー情勢を理解するうえで重要な事象や、一般報道ではあまり出てこない深みのあるファクトを取りまとめたものでもある。本文の記述からも明らかなように、今日のエネルギー情勢においては陰に陽にロシアが決定的に重要な役割を演じている。ロシアを軸としてその動向を押さえていくことは、エネルギー資源をめぐる情勢や、ひいては政治経済も含めた国際的な動向を理解するための有用な手段であり、その先を見定めるうえで重要な視座となる。エネルギー情勢に特化する本書ではできるだけ分かりやすく、しかしあえてマニアックな内容も排除せず、さまざまな情報を提供するように心がけた。読者の方々の関心を少しでも満たし、複雑怪奇にも見える石油ガス資源を中心とするエネルギー情勢についての理解が深まれば幸いである。