不思議な魅力を放つ本だ。古びた部分がないでもない。路傍の石に見まがわれるかもしれない。読む人の経験や年齢によっても受容は変わるだろう。だが宝物になり得る。少なくとも私にとってはそうだった。
主人公は引き取られた家庭になじめないホーティー少年。蟻を食べていたのを発見されて同級生や養父母にうとまれ、心身ともに傷つきながら家出して、巡業するサーカス一座に出会う。彼はサーカスで働き、自身を知り、成長していく。1950年に発表された、著者の第一長編だ。サイエンス・フィクションで、結末までにホーティーが肌身はなさず持っていた輝石の特性と生態が明らかになっていく。(ついでにホーティーが蟻を食べていた理由もわかる)
少年が超能力を隠し持ち、使いこなし、成長し、危機を切り抜けてヒロインたちを救う。こんなに王道な話だったかと私も今回読み返して少々驚いたくらいである。また、読者をぎょっとさせ、どきどきさせるように作られている。しかし本書には思いがけない複雑さがひそんでいる。たとえばサーカスに加わったからといってホーティーの身が安全になるわけではなく、むしろ一座を率いる恐ろしい男に決して本当の彼や力を知られぬように注意しなくてはならない。端的にいえば、この小説は疎外される経験やアイデンティティの確立、居場所探しといった多かれ少なかれ誰もが思春期に直面する経験と重なる。それがどれだけ響くかは読者のあなた次第だ。
翻訳者の川野太郎氏のあとがきからは、本書との個人的で親密な関係がうかがえる。私もそうだった。20歳の私はロンドンの古本屋兼中古CD屋で本書のペーパーバックを約100円で買い、1日か2日で読み終えた。まだ大して英語もできない私を突き動かしたのは、言葉の平易さや短さだけではなかったと思う。サスペンスや冒険小説としての面白さももちろん背中を押してくれた。秘密の露見と対決の日がどのように訪れるのか、謎や伏線は強力に読書を牽引した。でも本書の魅力はそれだけではなかった。
異なる人間たちが、普通の人間とは異なるやりかたで力を発揮する――超人や突然変異した人間、進化した人間といったテーマはSFの定番だ。スタージョンも本書の数年後に長編『人間以上』で再び取り組んでいるし、短編でもくりかえし扱っている。本書の結末で、ホーティーは普通の人間にまぎれて生きていかなくてはいけないわけではないものの、これまでとはまた異なる形で引き続き自分を偽って生きていく。一般社会に認められて大団円とはならない。一方で、完全に同じ性質を持つ仲間だけがわかりあえるという閉じた形にもならない。普通の人間とも関わり合えるし、なにより終盤では、ある登場人物がふいに話の通じる人間になり、しかもその理由が同一性ではなく近似にあったと明かされるのだ。
読者をいたずらに慰撫するわけでもなく、突き放して絶望させるわけでもない。この、ある意味では現実的な終わりは格別だった。出版から半世紀をゆうに超えても通用してきた魅力は、不朽や普遍と形容されるに値するだろう。著者の感情が小説に形を変え、鉱物化し、磨かれたような物語だ。その生々しさとの隔たりにも一種の心地よさがある。
著者スタージョンはアメリカのSF作家。彼と親しかったロバート・A・ハインラインやカート・ヴォネガットと比べれば、アメリカのSF史や文学史での存在感は薄い。彼は短編で本領を発揮し、その名を冠した年間最優秀SF短編賞は1987年から続いている。本書は数少ない長編、しかも第一作であるがゆえか、登場人物や著者との距離がふだんより近く感じられる。私のスタージョンへの評価も、この一冊で巧いや面白いを超えて愛着に変わった。