ちくま新書

なぜ日本人にはカトリシズムが受け入れられないのか

10月刊の稲垣良典『カトリック入門』の冒頭を公開いたします。

 本書で私は、カトリシズム――カトリックの信仰あるいはカトリック・キリスト教と言いかえてもよい――の本質は何かという問いに答えたい。そのためには、「カトリシズムと日本文化」の問題に取り組まなくてはならない。その理由を最初に述べておきたい。
 私自身、旧制高校時代にカトリシズムと出会い、数年後にカトリック信者になったのだが、その時には、私の心を耕してくれた日本文化とカトリシズムとの間にかつて起こった接触と葛藤の長い歴史、その歴史に含まれる文化と宗教との間の様々な問題には全く思い及ばなかった。
 たしかに宗教への入信は、パウル・ティリッヒの言葉を借りると各人の「究極的関心」(ultimate concern)に関わることで、心の最も奥深いところで行われるべき選択であり、何よりパーソナルな事柄であるに違いない。しかしそのことは当の根本的選択を行う心を耕し、育て、形成した文化――それは必ずその根本的要素として宗教を含んでいる――という「場」がこのパーソナルな選択に深く関わっていることを排除するものではない。
 言いかえると日本人がカトリシズムという宗教を見る目、と言うよりカトリシズムと出
会う日本人の心は、四百数十年前に初めて出会ったカトリシズムに対して両極端――熱烈・純粋で勇気ある受容と激しく執拗な敵意ある排斥――とも言える反応を示した日本文
化の影響の下にある、ということである。
 もしそうであるならば、日本人が「カトリシズムとは何か」と問い、その問いが単なる
好奇心からのものではなく、真の探求――アリストテレスが『形而上学』の冒頭で「人間は、生まれつき、知ることを欲する」と言う人間の本性そのものに属する知的探究――であるかぎり、この問いは単純でナイーヴな問いではありえない。それはむしろ日本文化に深く浸透されている問いである、と言わねばならない。
「カトリシズムは、西洋仕立ての洋服が日本人には着心地が悪いように、日本人には容易に受け容れられない」という感想をよく耳にするが、問題はカトリシズムを運んできた西洋文化と日本文化との関係にとどまるものではない。むしろ本当の問題は宗教としてのカトリシズムそのものと日本文化、とくにその中核にある日本的宗教性・霊性との関係のうちにある、と見るべきではないだろうか。
 とにかく、カトリシズム(カトリック・キリスト教)は日本人の宗教性・霊性をもともと培ってきた神道、この霊性をさらに深め、豊かなものにした仏教、儒教などと比べて、まったく特異な要素を含む宗教であることは否定できない。そしてこの特異な要素はこの宗教に最も身近であるユダヤ人にとってさえ躓きの石だったのであり、それが日本人にとってカトリシズム受容を妨げる大きな障害であったとしても不思議ではないからである。 

カトリックと日本的霊性の出会いが葛藤を生んだ

 ここで「カトリシズムと日本文化」という問題を提起し、日本文化という「場」で育った心を持つ日本人がカトリシズムを受容することを妨げる要因をつきとめようとするに当たって、私は恐らく読者が予想されているであろう事柄には立ち入らない。そうした事柄
とは西洋の歴史のなかで「カトリシズム」という名前に付着させられた「反キリスト」の業とも言うべき堕落や逸脱の数々である。思いつくままにそれらを枚挙すると、①聖書の軽視、②教皇権威の絶対化、③秘跡の「魔術化」、④宗教裁判、⑤免罪符、⑥十字軍、⑦聖母礼拝、等々。
 私がカトリシズム批判の論拠とされるこれらの事柄に立ち入らないのは、これらの非難の機会となり、また説得性を与えた堕落や逸脱が実際にカトリック教会の内部に見出されたことを知らないからではない。そうではなく、カトリック教会の構成員(肢体)は本性
からして誤謬に陥り、常に誘惑にさらされている人間なのであるから、「教会は常に改革されるべき」(Ecclesia semper reformanda)であることは明白である。
 むしろ私は、カトリック教会が強大な異端や甚だしい堕落に傷つけられながら、それに
生命を与える創設者であり「頭」であるキリストのゆえに、「一にして聖」である教会として存続しえた不思議さに驚かざるをえない。そして、教会に対してあびせられてきたこれらの非難・攻撃は、根本的にはカトリシズムとカトリック教会の本質についての理解の不十分なことに基づく誤解・歪曲と偏見であって、やがて消え去るべきものに過ぎない。
 これに対して、ここで提起するカトリシズムと日本文化の問題は、カトリシズムという宗教――それは後に述べるように世界の諸々の「宗教」と呼ばれるものの間にあって極めて特異な要素を含んでいる――と、日本文化の核心をなす霊性・宗教性との出会いにおいて生ずるものである。したがって、誤解や偏見といったレベルに属するものではない。
 十六世紀の中頃に起こったこの二者の出会いが、その後の数世紀の間に日本文化の深層において、いかに顕著な反応を呼び起こしたか。それについては第一章で述べる。そのようなカトリシズムと日本文化の接触と葛藤の歴史を振り返ることで、葛藤を引き起こしたものは何であるかをつきとめ、カトリシズムが日本文化、とくにその中核である霊性・宗
教性をより豊かで完全なものへと変容させるような仕方で受容される道を探ることが、本
書の課題である。
 そして、その道は、日本文化の側からも宗教としてのカトリシズムに何らかの寄与をな
しうる道ではないか。もちろん、その場合のカトリシズムとは、教えそのものではなく、
その文化的受容に関してである。そうした受容の道への希望を持つことは許されるだろう
か。

本書の構成

 第一章では、カトリックと日本文化との出会いを描く。新井白石らの、江戸時代の反キ
リシタン書をひもとき、日本でカトリシズムが受容されなかった理由を探る。そして西田
幾多郎の「創造」理解から、彼がカトリックに最も近い思想を持っていたことを明らかに
する。そして西田や鈴木大拙による理解からすれば、日本的霊性はカトリシズム受容を妨
げないのではないか、ということを示したい。
 第二章では、超自然の問題について考える。超自然をカトリシズムは重要視するが、それは決して反科学的でも反理性的でもなく、むしろそれは自己認識をもとにした形而上学に不可欠であることを明らかにする。
 第三章は、信仰と理性の問題について述べる。信仰と真理は不可分であり、知的探求に
は信仰の光が必要であるとするカトリシズムの考え方を示す。そして信仰なしに人間とは
何かを問うことの困難を明らかにしたい。
 第四章では、日本人のカトリシズム受容の躓きの石となった創造の問題を掘り下げて考
える。三位一体なる神、創り主と救い主の同一性が、この国ではなぜか理解されない。し
かし、絶対者の内在を肯定する日本的霊性には、カトリックと通底するものがあり、それ
がカトリシズム受容に向けたヒントになるかもしれない。
 第五章では、キリストは何者であるかを考える。超越的な絶対者である神が人間となっ
た「受肉の神秘」は、イエスによって顕現された真理でありながらイエスの内に深く秘め
られた秘密であった。そのことがカトリックの教え全体を支える真理であることを示し、
また日本的霊性からも縁遠い考え方ではないことを論じたい。
 第六章においては、キリストに続いて、聖母マリアが何者であるかを考える。三位一体
や受肉と同様、マリアが「神の母」であることを真剣に受け止めることが、観念的でない
実在的信仰には不可欠だと論じていく。マリア信仰こそが、日本においても生きて働くキ
リスト信仰につながったことも考えてみたい。
   最後の第七章では、教会の問題を考える。カトリシズムにおいては、教会はキリストの体であり、教会と秘跡は一体のものである。つまり、教会は信仰の神秘なのであり、決して単なる人間の共同体ではないのだ。
 本書を読んだ読者の皆さんが、カトリシズムの基本的考え方と、その現代的意義を理解
していただければ幸いである。

 
 

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