ちくま学芸文庫

二つの「言語論的転回」の狭間で

20世紀に歴史哲学のパラダイム・シフトをもたらしたアーサー・C・ダントの代表作『物語としての歴史』がこのほど、ちくま学芸文庫入りしました。「歴史理論で最も影響を受けた本」と言われる野家啓一氏が、本書のもつ哲学史的背景と意味について解説をお寄せくださっています。どうぞご一読ください。

1 「大きな物語」の衰退

 「歴史哲学」と聞いて、人は何を思い浮かべるだろうか。おそらく念頭をよぎるのは、ヘーゲルの『歴史哲学講義』に代表されるような、世界史の流れを俯瞰してその意義と目的を論じる「大きな物語」のことではあるまいか。
 本書の著者アーサー・C・ダントによれば、「歴史総体の意味を論じて、ヘーゲルはそれを絶対的なものの自己認識へ至る過程であると考えた」(36頁)のである。あるいはそれを、ヘーゲルは世界史の行程を「自由の自己実現」のプロセスと見なした、と言い換えてもよい。これが神の世界創造に始まり最後の審判で終末を迎えるキリスト教的歴史観の世俗化であることは見やすい道理であろう。ヘーゲル哲学の転倒を企て、階級闘争と革命によるプロレタリアートの解放を揚言したマルクスの唯物史観もまた、そのヴァリエーションであることは言うを俟たない。
 だが、このような世界史の来し方行く末を展望する「大きな物語」としての歴史哲学は、20世紀の半ばにほぼ終焉を迎える。というのも、20世紀の歴史哲学は、二度にわたる「言語論的転回(linguistic turn)」を経ることによって、その形式も内容も大きく変貌を遂げざるをえなかったからである。「大きな物語」の掉尾を飾ったのは、そのタイトルが如実に示しているように、ヤスパースの『歴史の起源と目標』(1949)であろう。周知のようにヤスパースは、起源も目標も定かではない人類史の流れの中に手がかりとなる「基軸(Achse)」を見出すことによって世界史の枠組みを描き直そうと試みた。しかもその基軸時代をインドや中国などアジアにまで拡張することによって、キリスト教文化圏を基盤とするヨーロッパ中心主義の弊を免れた「世界史の構造」を浮かび上がらせようとしたのである。
 ここで第一次の「言語論的転回」とは、私秘的な意識を哲学的思索の基盤とするデカルト以降の近代哲学が陥ったアポリア(独我論と不可知論)を公共的な言語の論理分析を手段に超克しようとする20世紀初頭の哲学運動のことである。論理経験(実証)主義ないしは分析哲学と呼ばれるこの趨勢は、自然科学と人文社会科学との方法的区別を認めず、自然科学(とりわけ物理学)の方法論によって歴史学をも包摂しようと試みた(統一科学運動)。「歴史の分析哲学」と呼ばれる潮流がそれである。
 だが、あまりに急進的すぎたこの試みはほどなく自壊し、やがて20世紀の終りにかけて、ソシュール言語学に淵源するポスト構造主義の言語論から強い示唆を受けた「歴史の詩学」ないしは「歴史の修辞学(レトリック)」とも称される潮流が勃興して実証主義的歴史学との間に激しい論争を巻き起こした。この動きを代表する著作がヘイドン・ホワイトの『メタヒストリー』(1973)でありポール・リクールの『時間と物語』(1983~85)である。これが20世紀後半に歴史学を席捲した第二次の「言語論的転回」にほかならない。
 このたび文庫化されたダントの主著『物語としての歴史』は、1965年に『歴史の分析哲学(Analytical Philosophy of History)』の原題で刊行された。それから20年後の1985年、本書の増補版が『物語と知識(Narration and Knowledge)』とタイトルを改めて再刊され、「歴史の物語論(narrativism)」の出発点をなす書物として再び注目を集めることとなる。こうした経緯から明らかなように、本書は論理経験(実証)主義流の「歴史の分析哲学」に引導を渡すと同時に、やがて興隆する「歴史の物語論」へ向けて鏑矢(かぶらや)を放つという重要な役割を担った著作である。その意味で本書は、二つの「言語論的転回」の間を橋渡しすることによって、歴史哲学にパラダイム・シフトをもたらした記念碑的作品にほかならない。

2 歴史の分析哲学

 第一次の「言語論的転回」は、19世紀末から20世紀初頭にかけてG・フレーゲ、B・ラッセル、L・ウィトゲンシュタインという三人の哲学者によって牽引され、彼らの影響を受けたウィーン学団のメンバーたちによって主に哲学の領域で展開された(主要な論考は、リチャード・ローティが編纂したアンソロジー『言語論的転回』(1967)に収録されている)。論理経験(実証)主義と呼ばれた彼らの目標は、言語の論理分析を通じて伝統的な形而上学を「偽」ですらない「無意味」な命題と断じ、返す刀で物理学の方法論をモデルに自然科学と人文社会科学を統合しようとする「科学的方法の統一」(373頁)を推し進めることであった。もちろん、歴史学もその例に洩れない。
 その中で最もよく知られているのは、歴史的説明の論理構造を明らかにしようとしたC・G・ヘンペルの論文「歴史における一般法則の機能」(1942)である。この論文がもたらした波及効果と論争については、本書の第十章「歴史的説明と一般法則」で詳しい批判的検討がなされている。ヘンペルが強調したのは、科学的説明であろうと歴史的説明であろうとを問わず、「説明は、それが人間的あるいは非人間的行動にかかわっていようといまいと、まったく同じ構造をもつ」(373頁)ということであった。その構造とは、歴史的出来事を記述する文(被説明項)は妥当な根拠と見なされる一連の前提(説明項)から論理的に演繹されねばならない、というものである。この説明項は一般法則と初期条件とから構成される。こうした観点に立つ限り、「歴史は単一の出来事を扱うからという理由で、歴史を自然科学から区別するような余地はまったくない」(377頁)ということになる。これは新カント派、とりわけヴィンデルバントの講演「歴史と自然科学」(1894)が提起した方法論的二元論に対する根本的な批判と見ることができる。
 この一般法則と初期条件から個別事象(歴史的事実)を演繹する手続きは「被覆法則モデル」ないしは「D-Nモデル(演繹的―法則論的モデル)」と名づけられている。だが、自然科学とは違い、歴史学において一般法則に相当するものを定式化することは甚だ難しい。たとえ確率論的説明を導入したところで、その説明は曖昧さを払拭しきれないからである。それゆえヘンペルは、歴史的説明については「完全な説明」であることを断念し、それを「説明スケッチ」と呼ぶことで満足するほかはなかった。
 こうしたヘンペル・モデルの帰結について、ダントは「おそらく演繹可能性の仮定は放棄せねばならないだろう。けれどもそれを放棄するかぎり、私たちはヘンペルの分析全体の根拠も、同じく放棄することになる」(381頁)と手厳しい評価を下している。その理由をダントは以下のように敷衍する。「ヘンペルは、彼の意味論的、構文論的規定については厳格であったが、方向を誤っていたのであり、説明行為の概念の中心たる語用論の次元を、まったく看過していたのである」(382頁)というわけである。
 ここで付け加えておけば、構文論とは記号と記号の間の形式的関係(文法)を、意味論とは記号と指示対象との間の関係を、語用論とは記号と解釈者の間の関係をそれぞれ研究する論理学の分野のことである。それゆえ構文論では記号結合の正/誤が、意味論では命題の真/偽が、そして語用論では言語行為の適切/不適切ないしは成功/不成功が評価の基準とされる。それでは、ヘンペルが看過している「語用論の次元」とは何であろうか。歴史的説明とは出来事を時間的に序列化し、それらの相互関係を組織化する言語行為にほかならない。そこでは対象を指示し、命題の真偽を判別するという「意味論の次元」以上のことがなされている。その余剰の部分をダントは「物語(narration)」と名づけるのである。それでは余りに漠然とし過ぎていると言うならば、彼の「物語とは、始めから終りまでの変化がどのように起こったかについての記述、言うなれば説明なのであり、始めと終りはいずれも被説明項の一部である」(419頁)という注釈を付け加えておこう。

3 物語文の不可欠性

 本書の中核部分であり、同時にハイライトをなしているのは「物語文(Narrative Sentences)」と題された第八章である。枝葉を切り落としてしまえば、この「物語文」の構造と、それと密接に関連する「理想的編年史(Ideal Chronicle)」の概念を理解すれば、本書の最重要ポイントは押さえたことになると言って過言ではない。
 まずは物語文であるが、これは「あらゆる種類の物語に現れ、ごく自然な日常の話し方のなかにさえ入り込んではいるが、歴史叙述において最も典型的に生じるように見える種類の文」(258頁)のことである。より具体的に定義すれば、「これらの文の最も一般的な特徴は、それらが時間的に離れた少なくともふたつの出来事を指示するということである。このさい指示された出来事のうちで、より初期のものだけを(そしてそれについてのみ)記述するのである。通常それらは、過去時制をとる」(同)と定式化される。物語文の具体例にはダント自身の例示を含めてさまざまなものが挙げられるが、ここでは黒田亘が提出した簡にして要を得た事例を取り上げておこう。黒田は歴史理解における物語文の重要性を、おそらくわが国で最も早く指摘した哲学者だからである。

ダントが物語り文と呼ぶのは、時間的に隔たった二つ以上の出来事(E1E2)を考慮しながら、直接にはE1だけについて記述するような文のことである。具体的な例で言うと、たとえば結婚式の披露宴で媒酌人が新郎新婦を紹介する。本日めでたく結婚の式をあげられたご両人が最初に出会ったのはかくかくの場所で、どこどこのテニスコートで、と。これはいまのダントの言い方でいうと物語り文の一例になる。(黒田亘「時間と歴史」、『知識と行為』東京大学出版会、1983年所収、153頁。初出は1981年)

 媒酌人などといういささか古めかしい事例で恐縮だが、「本日めでたく結婚の式をあげられたご両人」という直近の出来事の記述(E2)とそれに先立つ初期の出来事「ご両人が最初に出会ったのはかくかくの場所で、どこどこのテニスコートで」という過去時制による記述(E1)を見れば、これがダントの物語文の条件を満たしていることは明らかである。
 ではなぜ歴史叙述に最も典型的な文(物語文)は、時間的に隔たった二つの出来事に言及する必要があるのだろうか。単一の出来事を叙述する「三十年戦争は1618年に始まった」のような文だけでは不十分なのだろうか。それに答えるのが「理想的編年史」というもう一つの鍵概念である。

4 理想的編年史の不可能性

 ダントはここで「理想的編年史家」という完璧な能力をもつ歴史家を一種の思考実験として導入する。この歴史家は「たとえ他人の心のなかであれ、起こったことすべてを、起こった瞬間に察知する。彼はまた瞬間的な筆写の能力も備えている。「過去」の最前線で起こることすべてが、それが起こったときに、起こったように、彼によって書き留められる」(269頁)というわけである。この歴史家は、ランケが言う「なにが実際におこったか(wie es eigentlich gewesen)」をそのまま記述するという歴史家の理想を体現していると言ってよい。いわば地上の出来事をあまねく鳥瞰する「神の視点(Godʼs point of view)」の世俗化された姿でもある。
 だがダントによれば、この理想的編年史家は歴史叙述の基本単位である「物語文」を語ることができない。たとえば先ほどの「三十年戦争は1618年に始まった」という文をとりあげよう。これは単一の出来事を記述しているように見えながら、実は構造的には物語文なのである。鍵は「三十年戦争」という表現にある。この語は戦争が1618年に始まり、一定期間持続し(中間)1648年に終結したことを表している。つまり当該の文は、戦争の開始と終結という二つの時間的に隔たった出来事を指示しながら、開始の時点のみを記述している物語文なのである。
 ところが、1618年の時点でこの物語文を記述できる歴史家は存在しない。「三十年戦争」という表現を使えるのは、戦争が終結した1648年以後の歴史家だけだからである。いかに優れた理想的編年史家といえども、戦争の開始を目撃はできても、30年後のその終結を予測することはできない。ダントによれば「ひとつの出来事についての真実全体は、あとになってから、時にはその出来事が起こってからずっとあとにしかわからないし、物語のなかのこの部分は、歴史のみが語りうる」(274頁)ことなのである。要するに、現在時点で起こるすべての出来事を記述できる理想的編年史家といえども、「未来についての知識」(同)はもち得ないのである。逆に、未来を知りえないのと同様に「過去は変えられない」というのがわれわれの常識であろう。それに対してダントは次のように主張する。

だが一方「過去」が変化していると言いうるような、ある意味のとり方がある。つまり私たち(あるいはなにか)がその出来事に因果的に作用するとか、t1時が過ぎたあとにもある事柄がt1時に対して生じ続けているからというのではなくて、t1時の出来事がその後の出来事に対して異なった関係に立つようになるがゆえに、t1時の出来事が新たな特性を獲得するという意味において、過去が変化するのである。(280頁)

「過去が変化する」とはいささかショッキングな物言いだが、先行する出来事(E1)が後続する出来事(E2)との関係と影響によって、その意味を変化させることは別に珍しいことではない。旧ソ連邦における粛清と名誉回復、日本古代史における「聖徳太子」の存否をめぐる論争など、実例はいくらでも挙げることができる。要するに、歴史は常に「未完のプロジェクト」でしかありえず、時間が停止しない限り、「完結した歴史」などはありえないのである。

5 「修辞的な現在」へ向かって

 以上のようなダントの問題提起は、歴史記述が言語装置によって媒介され制作されるものであることを、改めてわれわれに思い起こさせた。さきの黒田亘の言葉を借りるならば、「過去とは過去を語るわれわれの言語的行為によって構成されるもの」なのであり、「いったん起こった出来事の意義は決して完結することはないと言ってよい」のである(前掲書、154~155頁)。
 これはダントが示唆した方向を歩み進めるならば、当然至りつく帰結であろう。実際、歴史学の領域での第二次「言語論的転回」を領導したヘイドン・ホワイトは、『メタヒストリー』の序論「歴史の詩学」のなかで、自分は「歴史学の作品を《物語性をもった散文的言説という形式をとる言語的構築物》として把握するつもりである」と明確に述べている(岩崎稔監訳『メタヒストリー』作品社、2017年、50頁)。つまり、歴史叙述とはメタファー(暗喩)やメトニミー(換喩)などの喩法を駆使してプロットの構成を行なう修辞的行為にほかならない。それゆえ「歴史についてある視座を優先的に選ぶときの最大の根拠になっているのは、究極的には認識論的なものというよりも、むしろ審美的または倫理的なものである」(前掲書、44頁)と彼が言うのもある意味で当然であろう。
 だが、歴史叙述が想像力(構想力)やレトリックが深く関与する言語行為であるとすれば、過去の出来事を忠実に復元することを目標とするランケ流の実証史学は行き場を失うことになる。言語表現としての歴史叙述とそれが指示する外部の歴史的現実の間に修辞的要素が不可避的に介在するならば、一義的な指示関係は成立せず、事実とフィクションとの境界線は曖昧にならざるを得ないからである。この事態は歴史家たちの間で「歴史学の危機」と受け止められ、『過去と現在(Past & Present)』誌を舞台に活発な論争が繰り広げられた。1990年代半ばのことである。その論争の仕掛人とも言うべき歴史家ローレンス・ストーンは「歴史学とポストモダン」と題する小論を寄稿し、危機の震源を①ソシュールからデリダにいたる言語理論、②ギアツらの象徴人類学、③ニュー・ヒストリシズムという三潮流に求めた。
 この状況分析はおおむね的を射ているとしても、そこにもう一つの震源としてダントの物語論(ナラトロジー)の与えた衝撃を加えておくべきであろう。彼の『物語としての歴史』は第一次の言語論的転回を第二次の言語論的転回へと架橋するとともに、歴史学の目標を「事実」や「真理」の探究から「意味」や「表象」の探究へと論理的筋道を外すことなく大きく転換させた里程標とも言うべき著作にほかならない。文庫化に際して非力をも顧みず、拙い道案内を買って出たゆえんである。

※本文内の強調は、傍点の代用です。(編集部)

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