ちくま文庫

物語のどこかに、ままならない「私」がいる。
ちくま文庫『少しだけ、おともだち』解説

小さい頃から「おともだちとは仲良くね」と言われてきたけれど、そんなにともだちって大切だったかな?「おともだち」って難しい……。『少しだけ、おともだち』(朝倉かすみ著)は、女性同士の微妙な距離感を描いた短編小説集。

 私は朝倉かすみ氏を「かすみちゃん」と呼ぶ。彼女は私を「とちた」と呼ぶ。そう、私たちはおともだちなのだ。

 私たちは二十年以上前、札幌の創作教室で出会った。ふたりして小説の書き方を習っていたのだ。どちらも小説家になるずっとずっと前のことだ。どういうきっかけでおともだちになったのかは覚えていないが、「おともだちになってください」といってなったわけじゃないことはたしかだ。

 おともだちって、かなりややこしい。だって、恋人や夫婦のように告白したり申し込んだりしてなるのとはちがう。おともだち宣言をするわけでもない。だから当然、一方がおともだちと思っていても、もう一方は「全然。あんなのただの知り合い。ふんっ(鼻息まじりの嘲笑)」と思っているケースだって多い。特に女子はそう。この場合の女子は年齢を問わず、幼女から老女までを指す。いくつになっても女子は女子のまま。大人になるにつれ経験と分別が女子のまわりに付着し、見えにくくなっていくだけだ。

 女子は、純粋さとしたたかさでできている。女子は、黒さと白さがマーブル模様になっている。同じ仲良し具合でも、その人が人気者であれば「おともだち」になり、嫌われ者であれば「ただの知り合い」になる。だってしょうがない。素敵なおともだちを持つことは、女子にとってステイタスのひとつなのだから。

『少しだけ、おともだち』。文庫書き下ろし二編を含め十の短編からなる本書には、そんな私たち女子の微妙なおともだち関係が描かれている。

 

 冒頭の「たからばこ」は、背後からひたひたと追いかけてくる不穏さが怖い。 主人公のうてなは幼稚園生。すでに、おともだちに親切にする優越感と正しさを本能的に知っている。「暗くならないうちに帰ってらっしゃい」という母の言葉、じゃないとなにか良くないことが起こるという漠とした予感、夜の林の不気味さ。そして突然現れたおとなのおにいさん=うてなにとってちょっと歳上のおともだち。うてなの目を通して見る世の中のぐにゃりとした暗さがリアルで、もしかして私も子供のときにこんな経験をしたんじゃないかと記憶をざわつかせる。

「グリーティングカード」は、まり子と珠美の中学生から五十歳までの「おともだち」ともいえない関係を描いている。自分には特別な才能があって、やがて何者かになると思い込んでいる、まさに「中二病」の珠美。「珠美みたいな子、いた!」と、中学時代を思い出す読者も多いでしょう。

 大人になると年賀状だけのつきあいが増えていき、まり子と珠美のように三十年以上会っていない同級生も珍しくない。ハガキに添えられたひとことや写真を見て、結婚したんだな、子供が生まれたんだな、と相手のプライベートを知り、別々の人生をいくらかでも共有しようとする。でも、珠美からのグリーティングカードはいつも「ひさしぶり。元気してる? あたしは元気」の決まり文句と仕事のことだけで、プライベートはいっさい書かれていない。一時は文筆家として時代の先のほうにいた珠美だったが、やがて仕事をしているのかいないのかわからない状態になる。それでも毎年グリーティングカードが届き、きまって「ひさしぶり。元気してる? あたしは元気」のひとこと。この決まり文句のもの悲しさと哀れさといったら! 「ひさしぶり。元気してる? あたしは元気」と毎回書く五十女が幸せなわけがなく、何者かになりそびれた珠美のいまが滲んでいる。同時に、それを目にしても感情を動かさないまり子もちょっと怖いと私は思う。

 朝倉かすみは、ひとりで自意識を肥大させる女子を書くのもうまいが、集団のなかで化学反応を起こしたときの自意識の変遷を書くのもうまい。

 それが「C女魂」だ。

 C女子高の二年松組。七人のボランティア同好会会員がベルマーク運動にのめり込んでいく。「うちらだって、やればできる」という高揚感と達成感がクラスを巻き込み、やがて学校の内外へと波及していく。最初は微熱ほどだったC女魂は、徐々にマグマのように膨れ上がり、ベルマーク付きの生命保険への加入を強制したり、ベルマークのついていないチョコレートを食べた女子を容赦なく罵倒したりするようになる。

「うちら、ちょっとおかしくなってない?」という小さな疑問の声はあがったが、「うちらは伝説になる」という妄信によりベルマーク活動はますますヒートアップしていく。

「C女魂」を読んで思い出すのが、アメリカの作家ジュディ・バドニッツの短編集『空中スキップ』に収められている「チア魂」だ。「チア魂」は、チームの結束のためなら犠牲をいとわないチアリーダーたちが、最後はガソリンをかぶり火だるまになってチアをするという抱腹絶倒のブラック短編だ。

「C女魂」は一見ハッピーエンドに見えるが、実は「チア魂」同様かなり怖いラストだ。限界まで膨れ上がったC女魂はどこへ行くのか? 熱狂と興奮はこのまま終わるわけがない。終着を想像すると、ああ、恐ろしい。

 文庫書き下ろしからは「百人力」を。

 美由が書く「妄想日記」に、ただただ感嘆するばかり! ここまで生々しく恥ずかしく書ける作家は朝倉かすみのほかにいないでしょう。またしても「いたよね、こういう子!(自分自身を含む)」と思わせてくれる。

 本書もそうだが、朝倉かすみの小説は共感性が高い。突拍子もない人間が登場することはほとんどないし、善人も悪人もいない。そこにいるのは、ままならない生身の人間であり、それは私たちだ。「いたよね(いるよね)、こういう子!」と共感できるのは、そこに自分を見つけられるからだ。(本書のどこかにも自分がいたでしょ?)

 ここだけの話、私には、朝倉かすみとどこかつながるものを感じる作家がふたりいる。前述のジュディ・バドニッツと、映画監督でもあるミランダ・ジュライだ。似ているというのではなく、読んでいるときに刺激される心の箇所が近いように感じるのだ。三人の小説の共通点を探すと、やはり「ままならない」感じだろうか。ままならない人間が、ままならない人生を生きている。だからこそ、そこにはきれいに割り切れる善も悪もなく、わかりやすい幸せも不幸せもなく、どんなに苦しくても悲しくてもどこか滑稽だ。そして、せつないような笑いたくなるような不思議な余韻を残す。

 

 さて、「おともだち」の話に戻そう。

 私とかすみちゃんはおともだちである。なぜなら、数日前も電話で一時間半おしゃべりしたし、何度も飲みに行ったことがあるし、かすみちゃんちに泊めてもらったこともある。だから、まちがいなくおともだちなのだ。でも、もし「私たち、おともだちだよね?」と訊ねたら、かすみちゃんは「うん。おともだち」と言ったあと、うひひっ、といたずらっぽく笑い、「んーでも、少しだけ、かな」とつけ加えるような気がしなくもない。

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