<おばあさんになるまで書き続けるために>
山崎 穂村さんはなぜ短歌を作るんですか?
穂村 うーん……まあ何かやりたいから、なんだと思うけど。でも、なぜそれが演劇や映画ではないのかというと、僕からすると計り知れないジャンルだからなんですね。もし僕が映画監督だったら、「主演俳優が途中で死んじゃったりしないだろうか」とかいつも心配してそうな気がする(笑)。でも、そういうこと考える人は最初から映画なんか撮らないわけで。だから逆にそうした集団での創作みたいなものに憧れもあるんだけど。劇団ってどんな感じなんだろう?とか思ったりね。表現観の違いから馬乗りになって殴ったりするのかなとか(笑)。でもじっさいには、紙と鉛筆さえあればできるところに行ってしまったのは、性格の問題もあるのかもしれませんね。
山崎 確か穂村さんは何かのエッセイで、歌人はすごく長生きするってお書きになっていたと思うんですが、穂村さんは長生きしたいですか?
穂村 そうですね、今のところはそういうふうに思ってますけどね、健康な限りは。
山崎 長生きしていく時に、やっぱり書き続けたいというのはあるんですか?イラスト
穂村 今のところ、そう思ってます。
山崎 短歌を詠むってことより、それ自体を盛り上げていくとか、そういうお仕事をされていくことも考えますか?
穂村 微妙なところですよね。「弱いジャンル」ってあると思うんです。文学においては短歌なんかもそうですけども。あるいは女子プロレスとかね。以前、長与千種さんとご飯をご一緒したことがあるんですけど、お話ししてると、ものすごくジャンルのことを考えているのが分かる。どうすればジャンルそのものが盛り上がるのか、常に考えている。また、自分がそのことに責任を持たなければならないという意識がひじょうに強い。だけど、漫画とか、あるいはジャンルによるけど音楽とか、そうした強いジャンルはそんなこと考えなくていい。でも弱いジャンルって、自分が属しているジャンルそれ自体がなくなってしまう不安がある。スポーツにとってオリンピックの種目になるかどうかってすごく重要でしょう? 先日の女子サッカーとか観てても、男子サッカーとはジャンルに対する意識が明らかに違う感じがした。サッカーは今や強いジャンルだから、男子にとってはとにかく自分がアピールできればいいのかもしれないけど、女子の場合そうはいかない。そういう意味で、僕も意識させられることはありますね。本当はあまりやりたくない仕事でも、ジャンル全体を考えるとやっておいた方がいいのかなって思ったり。
山崎 この前、『心を整える。』っていう、サッカーの長谷部誠選手の本を読んだんです。男子サッカーは確かにメジャーだと思うんですけど、その本の中では、日本のサッカー自体を盛り上げたいってことが書いてあって。だから、一緒にやっている選手の人たちはライバルだけど同志なんだ、と。私にも、日本の文学を盛り上げていく同志である作家の友だちがいっぱいいるので、そうだなーって思いました。現代小説がものすごくマイナーな分野だと思っているわけではないですが、現代小説自体を盛り上げたいというのはありますね。だから他の人を蹴落としたりとかしたくない……やっぱり友だちになりたい。
穂村 もうたくさんできたでしょう?
山崎 そうですね。そして、それは私にとって宝なんです。私は長生きとかにすごく固執していて、この本の最後でも書いていますが、一番の夢はおばあさんになるまで書き続けることなんです。そのための礎を築きたいということを、この連載中の30歳くらいの時に考えていました。で、やはり賞を貰っている人なんかを見ると「礎を築けているなー」って思ったりしたわけです。でも、今私は何の賞も貰っていないけど、おばあさんになるまで書けそうって感覚がすごくあるんです。それはなぜかというと、友だちがいるからだと思うんです。文学賞よりも、一緒にやってる仲間がいるっていうことが宝物で、そっちの方が「やれそう!」って思えるんですね。
穂村 それは素晴らしいですね。
山崎 それにおばあさんになるまでやっていく間に、みんなどんどん死んだりするじゃないですか? 男の人だったら奥さんが看取ってくれたりするかもしれないですけど、女の人は男の人より長生きするかもしれないんで、そういう意味でも友だちがより大事になってくるんじゃないかなって。何かを相談するにしても、旦那さんだけじゃなくてもっといろんな人に相談しないと人生築けないから、やっぱり「友だちが大事」なんです。
穂村 ナオコーラさんにとって、友だちって、表現とか社会とかと強く繋がっているものなんですね。
<理想の社会に恋愛は不要?>
穂村 そういうふうに言っていくと、例えば友だちに内緒で友だちを作ってもいいわけじゃないですか? ……というか、「内緒で」っていう言葉は当たらないし、普通に作りますよね。
山崎 その発想はいったいどこから……(笑)?
穂村 いや、要するに友だちって、1対1対応ではないですよね? それを基準に考えると、恋愛において恋人に内緒で恋人を作るのがいけないのは、対応が1対1だからですよね?
山崎 あ、そうですね。
穂村 だから今のナオコーラさんの話を聞いていて、どこにも突っ込みを入れるところはないんだけど……。友だちと仕事と社会で成立するなら確かにその通りだけど、そこに1対1の関係みたいな特殊なものが入ってきて、そことの関係性を考え出したりすると、僕は急に分からなくなるんだよね。
山崎 恋愛がなければいい?
穂村 恋愛がなければ、まったくもって辻褄が合う話ですよね。
山崎 恋愛が邪魔な感じがしてきましたね。
穂村 じっさいにそう言っている人もいましたよ。前に恋愛絡みのトークショーをやった時に、最後の質疑応答で若い女性が手を挙げて、自分は恋愛したことないし、興味ないし、これからもいらないと思う、って。なんというか、すごく進化した人が来たような気がしました(笑)。すいません!みたいな気持ちになったことを憶えてます。まあ繁殖はともかくとして、なぜマンツーマンの関係を作らなければいけないのかっていうのが、ちょっとよく分からないんですね。
山崎 1対1の関係はいらない気がしてきましたね。
穂村 でも、伴侶を見つけたんですよね?
山崎 なんか、ちょっと考え直した方がいいのかなって。
穂村 (笑)。
山崎 理想の社会ってものを考えると、いらないなって。もっと網目みたいな社会にしたいですよね。それこそ今回みたいな震災があった時、遠くの人のために何十万円っていう義援金を送ってもいいって思えるのは、社会が高度になっているからですよね。つまり、遠くの人とでも繋がっている感が強いっていうか。
穂村 僕は早く義援金を送って自分が楽になりたいっていうのがすごく強かったですけどね。
山崎 でも、そう思っちゃうのは、遠くの人に対して自分にも責任があるっていう感覚があるからですよね?
穂村 まあそうですね。その感覚をテレビとかで強制的に喚起されるからっていうのはありますけど。これを見て何もしないお前は何?!みたいなことをひたすら思いました。
山崎 それも「友だち」ってことなんじゃないですか? ある意味、同時代を生きていて、一緒に社会を作っているっていう意味で。広い意味で「友だち」。
穂村 そこまでは思えなかったなぁ。もうちょっと、自分の内側の勝手な衝動だった気が。今回たまたまああいうことがあったけど、それ以前から地球レベルで見れば悲惨だったとも言えるし、あるいは人間以外の種から見れば、すごく悲惨な状態だっていうようなことも言えてしまう。ある種の表現者は、最初からずっとそこに意識を向けていたわけだよね、宮沢賢治とか。今回の地震が起こった時、宮沢賢治がいたらどうしたかなとか思ったけど、やっぱり自分とはすごくクラスが違うなって感じがしてしまって。自分のことで言うと、今回のあれが起こるまで、外でどんなに酷いことが起きてようが「まあしょうがない」くらいの感じだったけど、国内で起こったことで完全に感覚が変わってしまった。でも、自分の意識が特別低かったとは思わなくて、だいたいみんなそんな感じだったんじゃないでしょうか。
山崎 そうですよね、世界では、戦争を含めもっといろんなことが起きている。そこまで想像できるようになれたらいいですけど、でも、なかなかできなかったりする。今回の震災に興味を持てているのは、「私も揺れたから」というのが少なからずあるからで。地続きであるということが感覚として分かるし、文化とかを共有しているから、「繋がっている」ということが分かる。でも、地球の裏側までは想像できていないなって思います。
穂村 地震があってから2ヵ月くらい、人と会うたびに「あの時、自分は……」っていう比べっこを盛んにしたじゃない? で、より揺れた人ほど、あるいは、より遠くから歩いて帰った人ほどたくさん話す権利がある、みたいな(笑)。揺れや津波は可視化されるからお互いに比較して合意をとることができるけど、現在進行中のものに放射能の問題があって、あれって可視化されないわけですよね。そうすると、例えば恋人同士でも危機感にものすごい差が出て、それで喧嘩になったり別れたりってことがけっこうあったらしい。子供をどのレベルで守るかといった問題もそうだし、地震が起きなければ、お互いに検証し得なかった部分がたくさん出てきた。旅行に行くとヤバいとかいうのもそのバリエーションで、お互い初めてのことを一緒にやると、思ってもみなかった相手の反応を見てしまうことがある。前にエッセイで書いたことがあるけど、昔札幌に行った時、手を繋いでいた女の子が足を滑らせたんだけど、その時、思わずパッと手を離してしまって……。そのあと数秒間のものすごい感じって、未だに忘れられない(笑)。「俺、今、あのー、ちょっとびっくりしちゃって……」とか、何を言ってもダメなんですよね。でも、そこで手を離してしまった奴は、「でもこれだけじゃ分からないだろ?! 魂は!!」とか突然開き直ったりできないじゃない(笑)? まあ別れましたけどね……それが直接の原因ではありませんけど。でも友だちだったらもうちょっとゆるいから、「なにそれ」くらいで済む。でも、マンツーマンの関係だとツラいですよね。
山崎 ……そうですよね(笑)。
穂村 ナオコーラさんだったら、そこで手を離されたら、どうですか?
山崎 私は……1人で立ち上がるんじゃないでしょうか。
穂村 相手に対するイメージは変わらない?
山崎 私は、男の人に助けてもらおうと思ってないので。
穂村 助けるというか……別に助けられなくてもいいんですよ、一緒に転んじゃっても。でも、手を離すのはマズいだろうと(笑)。
山崎 どうだろう、別にいい気もしますよ。
穂村 まあ……その一件だけでもなかったんですけどね。たまたまそこに象徴的に現れただけで。
山崎 (笑)。
<世界を構成するムダなるものたち>
山崎 (テーブルの上を指し)そのメモは何ですか?
穂村 あ、これは今日、会話が続かなくなった時に話そうかなと思って書き留めておいたメモです。石川さんが「どこまでも走ります」って言ったとか、そういうことが書いてあります(笑)。えーと、じゃあもうちょっと本の感想を言うと、例えばのりたけさんとのシーンなんですけど、ちょっと読ませてもらうと、
(…)のりたけさんはカフェオレをひと口飲んで、カフェオレボウルをソーサーの上に戻そうとするのだが、ソーサーの真ん中にスプーンがあるので、カフェオレボウルの底がかちゃかちゃと鳴って、置けない。しかし、自分ではスプーンのせいだとは気がつかないようで、いつまでもかちゃかちゃとやっている。
「……それ、スプーンをどかさないと、ソーサーの上に置けませんよ」
「あ、本当だ(笑)」
のりたけさんは、スプーンを横に除けてから、カフェオレボウルを置いた。
「えっと、じゃ、同世代のクリエーターたちに言いたいことはありますか? 私とかに」
「ないです!」
僕はここがひじょうに面白かったんだけど、メッセージの内容だけをとると、ゼロですよね。
山崎 メッセージはゼロです。この本自体、メッセージ性ゼロです(笑)。
穂村 ある層においては確かにそうなんだけど、別なレベルで考えると、今のは何かをものすごく雄弁に伝えていると思うんです。それにしても、こういうことってよくあるよね。本人だけは、もうどうやっても気づかない。なぜそこまで気付かないんだろう?って思うんだけど、気づかない。別な例で言うと、自動ドアじゃないガラス扉の前で、そのことにぜんぜん気付かず、センサーが反応するのをずっと待っていたり。まあ僕の話ですけど(笑)。傍から見ると「それ手動だから!」ってすぐに分かるんだけど。ナオコーラさんは、そういった箇所を「ここは情報ゼロだから」と削除しないで、むしろすごく広げて書きますよね。
山崎 そういうのを書きたいというのはありますね。それ以外にも、会田誠さんのところで、私が華原朋美について丸2ページくらい延々語っているところがあります。でも、別にそこまで華原朋美について喋りたいわけではないので、それとかもたぶん意味のなさを伝えたいんでしょうね。
穂村 今読んだのりたけさんとのやりとりと、さっきの長嶋さんのお父さんが結婚式で教会の雨の庭だけずっと撮っていたっていうのは、僕の中ではわりと似ていることなんです。なくなってもなんら困ることはないんだけど、じつはそれが世界を構成するすごく重要なもののような気がして。でもそれは文学の中とかでは認識されるけど、政治や経済の論理においては排除されているような気がする。それと似たことで、立派な大作映画なんかを観てると、身のこなしとかが明らかに現実よりも快適なんですよね。例えば、畳の上に寝ていて、そこから起き上がるのってけっこう無様というか、わりと大変なんだけど、映画の中の人はそれを軽やかにやりますよね、単に演技ってことだけではなく。ラブシーンなんかにしてもそう。現実のラブシーンはもっと余剰やダサい部分があって、それをみんな自身の身体でもって知っている。
山崎 そうですよね。
穂村 でも映画の中ではそうした部分が全部スキップされている。人間は本当はそんなふうに動かないし、ましてやシーンがいきなり切り替わるなんてこともない。あるはずのダサい動きが全部なくなっている映画を観ると、すごく脱力することがあるんです。というのも、その映画から現実に戻ると、体感的によりダメになった感じがしてしまって。でもナオコーラさんは、そうした生身の身体のダメさとか、情報がブレている感じとかにひじょうに意識的な気がします。「友だちたち」とか書いているし。
山崎 え、ダメですか?
穂村 小学校とかだったら直されると思いますよ、プロの作家だから直されないだけで。で、そういうのを読むと、ブレまくっている感じの中で自分は生きているってことが蘇ってくる。しかも、カフェオレボウルがスプーンのせいでソーサーに置けないってことを教えてあげたのに、「同世代のクリエイターたちに言いたいことはありますか?」って質問すると「ないです!」って言われちゃう(笑)。その感じとかも、なんか胸を打ちます。
山崎 そうしたダメさを書きたいというのはありますね。それこそ政治や経済の論理が働いているところでは、こういう文章で1冊作るなんてことはなかなかできない。文学者同士で対談とかをしても、この本のようになることはなく、直されて削られちゃうじゃないですか。確かに言いたいことはこれだったけど、こうなっちゃうんだ!っていう。私の話し方はたどたどしかったかもしれないし、語尾とかダメだったかもしれないけど、その通りでよかったのに、とか思ってしまう。そうした違和感もあるし、これから長く生きていく中で、より余暇を大事に過ごすようになると思うんです。そうした中で、効率的な会話をやめようじゃないか、みたいなことをやりたい気持ちはありますね。
穂村 「好きな色は、ありますか?」って質問の答えが、「知らないよ。考えたこともない」ですもんね、中原昌也さん(笑)。この2行を削除するって考えもあるわけだけど、それはしない。でも、その一見無意味なような2行があることで、「でも天使のような中原さん」っていうのが伝わってくるんだよね。僕も会社員をやっていたことがあるから分かるんだけど、ムダを排除しようというのには、一つに効率の問題があるわけですよね。でも、人生全体を考えると、どうせいつか死ぬってことを考えると、その効率至上主義はすごくみんなを不幸にしてるような気がする。電車に乗れば「この電車は1分遅れで運行しております。お詫び申し上げます」みたいなアナウンスが流れてくる。恐ろしい!って思った。だって、こんなデカイものが1分もズレずに運行するなんてできっこないないのに!って。まあ何分に出て何分に着くって一応宣言してるわけだけどさ。でも、1分遅れただけで謝ってたら地獄の人生になっちゃうよ。
<「男友だちを作る」は壮大なプロジェクトだった!>
穂村 僕も緊張して絶句したりすることがあって。ラジオとかだと、周りの人がすごく焦ってくれる(笑)。5秒以上喋らないとペナルティがあるんですよね、放送事故になる。だから、僕が黙り始めたところでアナウンサーさんはたぶんカウントを始めていて、3.5秒くらいのところで快活に入ってきてくれる。でも僕がラジオを聞いている人だったら、5秒間くらい無言の時間が続いた方が、「何だろう、このラジオ?」って聞き耳を立てると思うんだけど。あと僕、ルールの分からない囲碁のテレビ番組とかよく観るんだけど、これテレビだよね?って思うくらい、ぜんぜん画面が動かないことがある。延々と同じ盤面が映り続けている。でも、あれを観ると、それが動かないことに変な喜びを覚えるんだよね。そこには、普段我々を縛っているものが届かない何かがあるぞ、ってことに対する喜び。そういう感じをこの本から受け取りました。ナオコーラさんの生理的な気質というか。
山崎 読んでくださって、どうもありがとうございました。
穂村 ……そりゃ読みますよ(笑)。対談もするんだし。
山崎 それでは、そろそろ結論を出したいんですけど……。
穂村 え、結論出すの(笑)?!
山崎 穂村さんは、人はなぜ生きているのか、それについてはどう思われますか?
穂村 突然壮大ですね(笑)。……これは僕のアイディアではないんですけど、もし神様とか造物主が完璧だったら、その存在にとってこの世界をわざわざ創る理由はなかったと思うんです。これは逆説ですけど。ということは、神にはこの完璧ではない世界を創らねばならない何らかの理由があった。人間や動物は自分よりも不完全なものだけど、それでも、自分の完璧さにはない何かをここで見つけなければならなかった。つまり一種の実験みたいにして世界は創られた、ということです。我々は免疫機能の内側に1人ひとりがいるんだけど、その中に、すさまじい運命というものがある。例えば、(自分の頭の左右の空間を交互に指して)ここを矢が通ればぜんぜん無傷、こっちを通っても無傷。でも、(自分の頭を指して)ここを通ると死ぬじゃないですか? そうしたごく僅かな違いで、人の運命が決まってしまう。これってすごいことだと思うんです。それくらいすごい宿命を人間はインプットされていて、そしてこれはたぶん、神にはない宿命なんでしょうね。ということは、この宿命に何か意味があり、その中で神が見つけられなかった意味みたいなものを見つけろってメッセージなんじゃないかなって。だから、存在の意味のようなものを掴むことが、僕は生きる意味なんだと思ってます。
山崎 すごく納得しました。
穂村 夜寝る前にいつも1人で考えているから。
山崎 あ、よく考えてるんですね(笑)。
穂村 ナオコーラさんはどうなんですか?
山崎 私も寝る前によくそうしたことを考えていたことがあって。小学校1年生くらいの時って、そういうことよく考えるじゃないですか。人ってなんで生きるんだろう?って考えながら泣いていて、ある時、お母さんに聞いてみたことがあるんです。「人はなぜ生きるの?」って。そしたら「大人になったら分かる」って言われて。それで「そっか、じゃあ大人は分かってるんだ」って思ったんですけど、こうして今、大人になってみると、分からないまま死ぬんだなって。
穂村 動物を見ていて、どんな気分なのかなって思うことがあって。動物に「あなたは癌です」って言っても平気なわけですよね。言葉が通じないということもあるし、「死」という観念を持っていないから。でも僕らは、「死」っていうことをあらかじめ認識している。それはすごく大きな条件だと思うんです。なぜなら、そこからいろいろな認識が発生するわけですから。じっさいには死んだことないから分からないはずなんですけどね。もしかしたら自分は死なないタイプかもしれないのに(笑)。血液型O型の人は死なないとかさ。
山崎 けっこうな数、死なないですね(笑)。
穂村 もしそういう世界だったら、相当状況が違っているしょうね。あと、自分だけが死ぬとかだったら、すっごく恐ろしいだろうな。みんな死んできたからしょうがねぇか、みたいなのがあるから耐えられるわけで。……とまあ、そんなふうに思いますね。そうですか、男友だちを作るっていうのは、「人はなぜ生きるのか」という問いにも繋がる壮大なプロジェクトだったんですね。
<どれだけ変則的でも「友情」は可能>
山崎 じゃあ、アレに行きますか?
穂村 アレ? ああ、質疑応答ね。はい、いいですよ。
山崎 (客席に向かって)質問のある方いらっしゃいますか?
観客1(女性) 今日は、楽しくもユル~いお話をありがとうございました。ナオコーラさんの「メーターのがっかりさ」について、もう少し詳しく聞かせてください。
山崎 (観客1に向かって)メーターの存在って知ってましたか?
観客1(女性) ええ。それが何かは分かりませんが、ゼロになる瞬間というのは知ってました。
山崎 あ、そうなんですね(笑)。メーターって、けっこうみんなに知られてるんですかね?
穂村 うーん……まあでも……たぶん(笑)。がっかり?
山崎 そうですね、メーターっていうものを持ったことがなかったので。
穂村 あることがイヤなんだよね?
山崎 いやー……でもそれって、「もっと仲良くなろう」って意識が全員に対してあるってことですよね?
穂村 例えばテレビの戦隊モノって、5人組で、決まってその中に女の子が1人いますよね? もしその1人が他の4人とフラットな関係であるならば、女の子が2人とか3人になってもよくない?って思うのね。もしかしたら今はそういうのもあるかもしれないけど、僕が観ていた頃はたいてい女の子は1人で、紅一点みたいな感じだった。ということはやっぱりフラットじゃないんだ、って。
山崎 ええ?(笑)
穂村 設定がそういう前提になるということは、やっぱりフラットではないってことじゃないかなと。「今回は女3人で」とか「今回は男3人、女2人で行きましょう」とか、戦隊モノの男女比がその都度変わるわけじゃないから、やっぱりそこにはバイアスがあるような気がするんです。それも広い意味で作り手側のメーター意識の表れなんじゃないかなって。
山崎 じゃあ、4人の男レンジャーは、その桃レンジャー的な人に対して「仲良くなりたい」みたいな気持ちがあるってことですか?
穂村 いや、必ずしもそうとは思わないけど、潜在的にそういうものを暗示しているというか……。
山崎 私はそこにはやっぱり物語として違う軸を据えて欲しくて。「俺たちチームじゃん!」みたいなところに、普通に女の人も入れて欲しい。
穂村 それですよね、メーターがあるとそうはならないわけで。だから、女性の主体性がひじょうに強い磁場を持った時、突如として自分の中のメーターがゼロになり、その一瞬はまったくのフラットな状態になるわけです。さっきの川上未映子さんの「なんで?」みたいに。でもそれがずーっとフラットなままだと……。
山崎 あ、今分かりました! 今日、私はそのメーターについてがっかりしてはいけなくって、みんなが勝手にメーターを上下させていても、私は関係なく「でも、チームじゃん!」て思ってればいいんですよ。
穂村 そこに強い説得力があれば、相手のメーターを常にゼロにしておくことはできると思います。じっさい、そういうことのできる人を見たこともあるし。ただ、メーターの存在そのものを消すっていうのはまたちょっと違う話かもしれないですね。どうすればできるのか分からない。
山崎 そうですね。ショックを受けてしまったことが間違いだったのかもしれないです。
穂村 でも、女性側にそういったメーター的なものが一切ないんだとすると、「あの人ステキ!」みたいに突然恋愛的なステキが発生する回路がよく分からない。
山崎 でもそれは「恋愛したい!」と思っている状態の時ですよね? そうじゃない時でも男の人に会うのは面白いから、それはメーターまったくない気がします。普通に出会って、そのあと疎遠になったりしてもいいし、一生会わなくても「50年前に会ったあの人」という関係はあるし、「年賀状だけ来るあの人」みたいな関係もある。それはそれでよくって、必ずしも「もっと仲良くなる」っていうことを見据えなくてもいいと思うんです。
穂村 「恋愛したい時」っていうのは、対人的なものではなくて、自分の首の後ろ辺りにスイッチがあって、それをカチンカチンとやって恋愛モードになるってことですか?
山崎 あれ? でもそういうの、あると思いますけどね。
穂村 ……そしたら、男性が何をしてもムダになりません?
山崎 ……。
穂村 いっそのこと「ちょっと後ろ向いてみて」とか言って、首のうしろのスイッチをいじらせてもらった方がいいかもね(笑)。
山崎 スイッチがOFFの状態だと、そこから始めなければならないことになりますね。大変ですね、男の人は。
※
観客2(男性) 恋愛の1対1対応の話がありましたけど、ナオコーラさんの壮大なプロジェクトを考えると、普通の核家族よりも10人くらいのコミューンとかを作った方がいいような気がするんですが、そういう欲望はありますか?
山崎 あります(笑)。穂村さんの『もうおうちへかえりましょう』のあとがきに「永遠の寮」というのがあって、それが私にとってすごく理想なんですけど、今読んでいいですか?
穂村 はい。
山崎 「友達と一緒に寮に住みたい。小さな部屋がひとりにひとつずつ。恋人同士で住むのもありだけど、その場合もひとりひと部屋。それぞれの扉には番号がついている。二階の端っこにアトリエがあって、誰かと話したい気分のひとはそこに集まってくる。アトリエにはトルソーがいる。カップルの女の子が、自分の恋人じゃない男の子の上着を羽織って林檎を齧っている」。これがすごく好きで、こういう寮に住みたいなって思っています。穂村さんはそういうのないですか?
穂村 まあ、あるから書いたんですけどね(笑)。自分の恋人ではない男の子の上着を羽織って、女の子が林檎を齧っている。憧れます。なんででしょうね。
山崎 でも大学の頃って、そういうことやってたなって思うんです、合宿に行った時とか。でも大人になると変じゃないですか? 旦那さんのものじゃない上着借りてるって。
穂村 青春が終わると一気に厳しくなるってことですよ。だから僕は、70年代の青春ドラマとかばっかり観てますもん(笑)。男女が混ざって住んだりしているようなやつ。70年代けっこうすごいですよ、「男に便所掃除させる気か!」とか中村雅俊が怒鳴ったりしてて。相当今と違うなーって。
山崎 そうなんですか(笑)。あと、子育てとかもみんなでやれたらいいなって思いますよね。
※
観客3(女性) 穂村さんの「男友だちは多い方ですか?」という質問に、「大学生になったら男友だちが増えた」って答えられてましたが、私は今大学生なんですけど、知り合う人は多いものの、「知り合い」で終わっていることが多いような気がしています。ナオコーラさんが大学生の時にできた男友だちは、どんな人たちだったんですか?
山崎 知り合いのことも、心の中で勝手に「友だち」と思っていてもいいように思いますが(笑)。私の場合、最初に1人男友だちができてから、どんどん欲深くなっていったんです。で、男の子だけで遊びに行く時とかに「じゃあ私も!」ってどんどん混ざっていった。同じように、大学でご飯食べているグループなんかがあったら、やっぱりそこでも「私も!」って。私は、女っぽいキャラでも男っぽいキャラでもなかったから、たぶん、おまめさん的に混ぜてくれてたんだと思います。……あまり質問の答えになってないかもしれませんが、大丈夫でしょうか?
観客3(女性) ありがとうございました。
山崎 でも、人生まだまだこれからですもんね。新しい関係を作れる次世代の人たちがいっぱい出てくると思うんで、期待しています。……と、穂村さんは何かないですか? 異性の友だちについて。
穂村 僕もぜんぜんできませんでしたねぇ。でも、自意識がある程度鈍くなるまではダメとかって、ないですか? いちいち「女だ!」とかって思っていると……ねぇ(笑)。自分に対する期待値とか、関係性に対する期待値が高いうちは何もできなくて、それが下がるまで待たないとダメっていうのはちょっとありましたね。だから、おじいさんとかすごいですよね、天衣無縫っていうか。おじいさんみたいになれたら、もっと女友だちが増えるんだろうなって思います。でも(長嶋)康郎さんとかはそういう境地なのかもしれないな。
山崎 あ、そうですね。
※
観客4(女性) インターネットが普及した今、それを通して出会う人、あるいは会ったことはないけど(インターネット上では)友だち、みたいなことが増えているように思います。そのへんについてはどんな考えをお持ちですか? それも友だちだと思いますか?
山崎 友だちだと思います。私自身はネットにくわしくないので、そういう友だちはいないんですが、でもネット上でのコミュニケーションに慣れていたり、そこでのモラルに長けている人はそういう友だちをどんどん作っていくでしょうし、これからの時代、そういう人はもっと増えていくと思います。私、前はネットが恐くて大嫌いで、以前穂村さんと対談させていただいた時も、「私は『ネット死ね!』って思ってます」って(笑)。
穂村 活字になりましたよね、それ(笑)。
山崎 でも最近はネットも恐くなくなってきましたし、今回の震災での大活躍も目の当たりにしましたし、上手く使えばいい人間関係を作れるんだろうなって思うようになりました。
穂村 僕もそう思います。さっきの放射能の話がそうですけど、何十年も連れ添った夫婦であっても、それまでなかったファクターが一つ生まれただけで、突然相手が異形のものに見えてくるってことがあるわけですから。つまり、完全なコミュニケーションは無理だと思うから、むしろどんなに変則的であっても、その中で「友情は可能だ」と思った方が逆にリアルかなって。そういえば僕も、大学の時一緒に住んでた男友だちと25年くらい会ってなかったけど、それでもずっと勝手に友だちだと思ってたな。で、25年目に会ったんだけど、別に何も変わってなかった。だから、どんなに変則的なバリエーションであっても、「友だちだ」って思った方がいいのかなって思います。
山崎 というところで、そろそろ時間ですね。どうもありがとうございました。
穂村 ナオコーラさんがすごく真面目な人だということが伝わってきて、感動的だったと思います。台風の中、今日はどうもありがとうございました。
(2011.07.19)
本文イラスト:のりたけ 編集協力:辻本力