靖国問題

首相の「靖国」参拝 何が「問題」か
ちくま新書『靖国問題』著者緊急寄稿

 10月17日、小泉首相が5度目の靖国神社参拝をした。  この日が初日の靖国神社秋季例大祭に参拝するのではないかという観測は総選挙後、盛んにささやかれていたし、前々日ごろにはすでに参拝は17日確実という情報がマスコミ関係者に広がっていた。その意味ではこれも、しっかり「小泉劇場」の一齣として演出された政治ショーだったと言えるだろう。

 朝日新聞が17日夜から翌日にかけて行なった全国世論調査によると、首相の参拝を「よかった」とする人が42%、「するべきではなかった」とする人が41%で、「賛否が二分された」という。この春から夏にかけて韓国・中国とのあいだで対立が深まったときには、「参拝は見送るべき」との意見が多かったのを考えると、「よかった」が多かったのは意外だ。さらに意外(?)なのは、男性では38%対46%と反対が多いが、女性では46%対36%で賛成が多いという結果だ。ここにも総選挙に現われた小泉人気が反映されていると見るべきなのかどうか。

 参拝を支持した人の理由で多いのは、「戦死者への慰霊になる」37%、「外国に言われてやめるのはおかしい」24%。反対する人で多いのは「周辺諸国への配慮が必要」69%だという。

 「戦死者への慰霊になる」という意見は、「国がした戦争で死んだ人は国の代表である首相に感謝されて当然」という心情を反映しているのだろう。戦死者への哀悼の思いそのものはもちろん否定されるべきものではない。だが、戦死者を国の代表が慰霊するのは良いこと、自然あるいは当然なことと考えるのは、じつはかなり危ういことだと言わざるをえない。その心情は、靖国神社がかつて軍の施設であった時代、庶民が天皇や首相の参拝について抱いていた心情と変わりがない。戦死して靖国神社に祀られることが最高の栄誉だと信じられたのは、まさに国家の代表が参拝し戦死者の「尊い犠牲」を褒めたたえたからなのだ。国の代表の靖国神社参拝という儀式が「名誉の戦死」という観念を支え、強化して、国民を戦争に動員し、兵士たちを戦場に駆り立てていったのだとすれば、まずはその儀式を疑ってみることが必要だと思う。

 反対する人の69%が「周辺諸国への配慮が必要」という理由を択んでいるのは、どう見たらよいだろうか。私も「周辺諸国への配慮が必要」とは思うが、では中国や韓国からの批判がなかったとしたら、どうなるのだろうか。「周辺諸国への配慮が必要」と考える人が、もしも、周辺諸国から批判されなければ参拝自体には問題がないと思っているのだとすれば、私にとっては喜べない事態である。今回の朝日新聞調査でもそうだが、参拝への反対理由の中で「憲法が禁止する宗教的活動にあたるから」を択ぶ人は、この種の調査ではいつも少数にとどまっている(1割前後の場合が多い)。これは、憲法の政教分離原則に対する理解がまだまだ進んでいないことの現われではないだろうか。

 憲法の政教分離原則については、それが信教の自由を保障する第20条の第3項に出てくるからか、特定の宗教を信じている人だけに関係すると思っている人が案外多い。キリスト教徒でもなければ、とりたてて「仏教徒」と言うほどのことでもなく、漠然と自分は「無宗教」だと思っているような最大多数の日本人にとって、政教分離はどこか他人事のように感じられている節がある。たしかに政教分離は信教の自由を制度的に保障するものとして重い意味をもっている。しかし、それが同時に日本国憲法の「主権在民」を支える原則でもあることを私たちは知るべきだろう。

 大日本帝国憲法では第1条に「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」とあった。第3条には「天皇は神聖にして侵すべからず」とあった。天皇はこの国を生んだ神アマテラスの子孫であり、神武天皇以来一筋の血筋でつながっているという神話、天皇崇拝と神社神道が一体化した「国家神道」の思想が、天皇が統治権者である根拠とされていたのだ。

 だから、天皇主権を否定してこの国を主権在民の国にするためには、国家神道を否定すること、つまり国家と神道を分離し、神道を「国家の祭祀」から他の宗教と並ぶ一つの宗教にするとともに、国家をすべての宗教に対して中立的存在にすることがどうしても必要だった。

 政教分離は近代国家の原則であるが、その形態は各国の歴史的事情に応じて多様だと言われる。天皇主権国家を支えた「国家神道」を解体し、主権在民を実現すること。ここに日本国憲法が政教分離原則を必要としたもう一つの歴史的事情があった。だとすれば、政教分離原則は決して宗教者の人々にとってだけ大切なのではなく、「無宗教」者であろうと無神論者であろうと唯物論者であろうと、この国の主権者である「民」のすべてにとって大切な原則であることになる。いまなお天皇を「日本国及び日本国民統合の象徴」として特別扱いしているこの国では、政教分離は民主主義を支える根本原則の一つなのだ。

 今回、小泉首相は過去4回の参拝と異なり、礼服ではなく平服で、玉串料の代わりに払っていた献花料も払わず、本殿に昇殿せずに拝殿前で賽銭を投げ入れて一礼しただけで、そそくさと靖国を後にした。あっという間の「簡略化された」参拝だった。本人は「総理大臣の職務として」の参拝ではなく「普通の一般国民と同じ」形にしたと言っているが、これが、昨年の福岡地裁判決や先月の大阪高裁判決で相次いだ違憲判断のプレッシャーによるものであることは明らかだ。

 しかし、外形上の公的性格を多少とも薄めたところで、秋季例大祭という靖国神社にとって最も重要な宗教行事の日の「首相の参拝」が、宗教性と政治性を合わせ持ち、国と特定の宗教団体が特別の関係にあるという印象を内外に与えた点は変わらない。首相は国の最高権力者であり、憲法を最も尊重・擁護すべき立場にある。首相の行為は「合憲」であって当り前。「違憲判決」が2度も出たことをもっと真摯に受け止め、疑いを招かないように潔く参拝を中止すべきだと私は思う。

 中韓両国は予想通り反発を強めている。両国から見れば、礼服か平服か、本殿か拝殿かなどの違いは問題にならないし、憲法違反かどうかも日本の国内問題にすぎない。かつての「軍国主義」のシンボルであり、「A級戦犯」が合祀されている靖国神社に日本の首相が参拝すること自体、歴史認識や戦争責任に関する日本政府の立場を疑わせる。それはまた、憲法9条改定と日本の軍事化に対する懸念とも結びつく。

 ここで指摘しておきたいのは、小泉首相がこれまで、参拝時の談話でも国会論議でも、かつて靖国神社が戦争やアジア侵略に果たした役割についてまったくといってよいほど触れていないことだ。靖国神社は19世紀の末から日本がアジア侵略を開始し、一大「植民地帝国」をつくり上げ、日中戦争から太平洋戦争を経て敗戦に至るまで、一貫して天皇の軍隊(皇軍)の神社として、日本の戦争と植民地支配を支え、美化する役割を果たしてきた。「靖国で会おう」という言葉は、そうした戦争や植民地支配を遂行する「お国」のために死ぬことを日本軍兵士に奨励する意味を持っていた。ところが首相は、「心ならずも戦場に散った方々に感謝と敬意を捧げる」とか、「二度と戦争を繰り返さない、平和を願っての参拝だ」というだけで、靖国神社こそが戦争や戦死を美化してきた事情に決して言及しないのである。言及すれば、自らの行為の矛盾が明白になってしまうことを知っているからかもしれない。

 問題は過去だけではない。戦時中には、「国家神道」を形成した神社神道だけでなく、仏教教団やキリスト教教団も一体となって戦争協力を行なった。しかし、敗戦後かなりの時間が経ってからとはいえ、仏教やキリスト教の教団の中には自らその過ちを認め、教団の歴史を批判的に検証する動きも出てきた。他方、靖国神社はいまでも「英霊の慰霊・顕彰」とともに、日本の戦争は間違っていなかったという「近代史の真実」を明らかにすることを使命として掲げている。靖国神社の歴史観は自分のそれとは違うと首相は言うが、この違いは無視して済ますにはあまりに重大である。

 最後にもう一度、政教分離問題に戻ろう。というのも、政治家もメディアも国民もこの問題を軽視し、中国・韓国からの批判をとりあえずどうかわすかの議論に終始しているうちに、その陰に隠れるようにして、ある重大な事態が進行しているからだ。憲法の政教分離規定を「改正」しようとする動きである。

 自民党は昨年6月の「論点整理」から、同11月の「大綱」、今年4月の「要綱」、そして8月の「条文案」と、憲法改正案の概要を公表してきた。そのすべてを通じて、政教分離原則は「改正」の対象なのだ。現憲法20条3項は、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定している。これが最新の自民党「条文案」では、「国及び公共団体は、社会的儀礼の範囲内にある場合を除き、宗教教育その他の宗教的活動をしてはならない」となっている。宗教的活動に対する公金支出の禁止(89条)にも、同様に「社会的儀礼の範囲内にある場合を除き」と例外規定が入る。要するに、国や自治体が公金を使って宗教的活動をしても、「社会的儀礼の範囲内」であれば許されることにしようというのである。

 自民党の狙いは明白だ。首相や天皇の靖国神社公式参拝は、憲法判断に慎重な日本の司法でも、明確な違憲判断が出たり、違憲の疑いが指摘されたりしてきた。だから、公式参拝を定着させるためには、戦没者追悼のための「社会的儀礼」だから合憲だと言えるように、憲法そのものを変えてしまおうというのだ。こうすれば、北海道護国神社(旭川市)の慰霊大祭のように、自衛隊制服組幹部がそろって玉串を奉献し参拝するようなケースでも、「休暇時間中」に「ポケットマネー」でしているなどと言い訳する必要はなくなる。堂々と公金で勤務時間中に参拝できるようになるだろう。かつて自民党は、靖国神社国家護持法案の成立を期したときも、中曽根康弘首相が靖国神社公式参拝を行なったときも、憲法違反と言われないように一定の努力をしてきた。ところが今や、違憲の疑いを無視して参拝を繰り返す首相のもとで、ついに政教分離原則自体を手前勝手に変えてしまおうということらしい。

 この改憲案は、原則を維持して例外を認めるだけのように見せかけながら、じつは原則そのものを破壊しようとするものである。先に述べたように、日本国憲法の政教分離原則は、国家神道が帝国のイデオロギーとして天皇主権国家を支え、破局に至った教訓から学んで、国家と神道を切り離し、天皇主権の「根拠」を否定して、主権在民を可能にするとともに信教の自由を保障するために導入されたのだった。ところが、自民党案で政教分離の例外とされるのは、今日まで曖昧なまま存続してきた国家と神道との癒着関係にほかならない。つまりこの「改正」は、政教分離が否定しなければならなかった当のものを例外として認めることで、政教分離原則の核心をなし崩しにするものなのだ。

 憲法9条の「改正」と、靖国神社公式参拝の合憲化が同時に行なわれたらどうなるか。新たな戦死者の受け皿として、英霊顕彰システムが復活するのを認めるわけにはいかない。

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