『はじめての哲学的思考』番外編

第3回 僕らの自由
苫野一徳の哲学的人生相談

 今回で最終回。2つのご相談について考えてみます。

6.私は気づけば相手と反対の立場を取ってしまいます。明確に対立するのではなく相手の話へ疑問を投げかける形でですが。普段、絶対にとらない立場に立ってでも平然と反論してしまうのです。これは、自己了解がなっていないからなのか、ただ反論したいだけなのでしょうか。 @Reunion

 19世紀ドイツのヘーゲルという哲学者が、『精神現象学』という本の中でこんなことを言っています。
 人間は、誰もが「価値ある存在」でありたいと思う。でもそれはそう簡単なことじゃない。だから僕たちは、「価値ある存在」になるためにいろんな仕方であがいてしまうのだ、と。
 その“あがき方”にはいくつものパターンがあるのですが、そのうちの一つが、「いつも人を批判する」というものです。
 要するに、人を常に批判することで、自分の方が優位に立っているということを、人にも自分にも示そうとするのです。
 Reunionさんがそういう欲望を持っているのかどうかは分かりませんが、もしそうだとしたら、ヘーゲルに言わせればこれはちょっと辛い生き方です。
 いつも人を批判してばかりいる人は、疎まれるし、そして何より、そんな自分が本当に相手より優れているのかどうか、自分でもよく分からなくなってしまうからです。「結局自分は、ただ人を批判しているだけで何も建設的なことを言えていない……」と。

 そこでヘーゲルは言います。大事なのは、ただ相手を否定してばかりいることじゃなくて、自分の考えが、本当に多くの人の納得や承認を得られるものかどうか、常に問いかけ続けることなのだ、と。
 その努力の過程で、もしも人から承認を得られたなら、僕たちは自分を「価値ある存在」だといくらか思えるようになります。もし承認を得られなかったら、得られるよう努力しようと思えばいいのです。
 ただ否定や批判を続ける限り、僕たちが自分を「価値ある存在」だと思えることはありません。自分の価値は、「相互承認」をめざし続けるところにしかないのです。

7.教師になってから“自由の相互承認”や “一般福祉の原理”などの知識を活かすために、高校生のうちに何かできることはありますか? @池田マサヒロ

「自由の相互承認」と「一般福祉」のこと、知っていてくださって嬉しいです。マサヒロさんは高校生ですか? 日本の未来に希望を感じます(笑)。

「自由の相互承認」の原理、これは、「僕たちの社会が一番大事にしなければならない考え」です。
 僕たちは、誰もが「自由」に、つまり生きたいように生きたいと思っている。でもだからこそ、互いの「自由」を主張して争い合ってしまう……。これは、人類がこれまで延々と繰り返し続けてきたことです。
 その最たるものが、戦争です。人類は、誰もが「自由」に生きたいと願うからこそ、長い間命の奪い合いを続けてきたのです。
 ではどうすれば、僕たちは戦争を終わらせ、自由で平和な社会を作ることができるのでしょう?
 1万年以上におよぶ戦争の歴史の末に、哲学者たちがわずか二百数十年前に見つけ出した答え、それこそが、「自由の相互承認」という原理でした。
 もし、僕たちが平和に自由に生きたいと思うのならば、まず誰もが自由に生きたいと思っていることをお互いに認め合うほかにない。そしてその上で、互いに調整し合うほかにない。
 これが「自由の相互承認」の原理です。詳しくは、『はじめての哲学的思考』をぜひ参考にしてください。

 もう一つの「一般福祉」の原理は、「自由の相互承認」の原理を、いわば行政の観点から言い直したものです。
 行政は、ある一部の人たちの「自由」だけを実現するものであってはならず、すべての人の「自由」(よき生=福祉)を実現するものでなければならない。これが「一般福祉」の原理です。
 当たり前のことですが、しばしば忘れられてしまうこともある大事な原理です。

 こうした考えを本当に自分のものにするために、高校生のうちにできることは何か?
 僕はぜひ、学校外へとどんどんと飛び出してもらいたいと思います。それはつまり、多様性の中へ飛び込んでいくということです。

 大学1年生に、僕はよく、「高校までは『ヤバい』だけで会話ができたかもしれない。でもこれからはそうはいかないよ」と言っています。
 「あれヤバくない?」「うわ、やっべ」
 高校生のうちは、仲間内でのそんな会話が通用するかもしれません。でも社会に出れば、そこは年齢も文化も考え方も違う人たちからなる世界です。何がどうヤバいのか、言葉にできるようにならなければなりません。
 そして何より、僕たちはそのお互いの多様性を、できるだけ認め合えるようにならなければならないのです。
 そうでなければ、僕たちは激しい争いを避けられません。

 別に、相手の何もかもを認めなければならないと言っているわけではありません。価値観や感受性が合わなくても、とりあえず存在だけは認める。相手の価値観が受け入れられなくても、それが人の自由を著しく傷つけるものでなければ、とりあえず認める。そうした「相互承認」の精神、生き方こそが、結局のところ僕たちを最も「自由」にする生き方なのです。
 ニーチェは「愛せない場合は通り過ぎよ」という名言を残していますが、それもまた相互承認の一つのあり方です。
 愛せないからと言って攻撃するのではなく、存在だけは認めて、通り過ぎる。そんな知恵も、僕たちには時に必要です。
 とにかくぜひ、若いうちに多様性にもまれて、相互承認の難しさと、でもそれをめざし続ける経験を積んでいただきたいと思います。