求するものだというお話をした。
でも、それって今では「科学」の仕事なんじゃないの?
現代の科学は、古代ギリシアの哲学なんかとは比較にならないレベルにある。ということは、哲学は今日、科学に取って代わられてしまったということだろうか?
いや、そんなことはない。哲学は、今も昔も、実は科学の土台と言うべきものだ。
――前回の最後に、そんなお話をした。
それはいったい、どういうことなのか? 哲学と科学とは、いったい何がちがうのだろう? 今回は、こうした問いに答えていくことにしたいと思う。
汝自らを知れ
前回ご紹介した、タレスやアナクシマンドロス、アナクシメネスといった古代ギリシアの哲学者たちは、一般に「自然哲学者」と呼ばれている。文字通り、自然はいったいどういうメカニズムで動いているのか、その原理を、“神話”ではなく観察を通した“思考”
によって明らかにしようとした人たちだ。
哲学(philosophy)の語源は、philia(愛)とsophia(知)。古代においては、知を愛
し探究することは、なんでも哲学とされていた。だから人びとは、今なら「自然科学者」と呼ばれる人たちもまた、「自然哲学者」と呼んでいたのだ。
彼ら自然哲学者たちは、満足な実験道具も技術ももっていなかった。だから、もっぱら“考える”ことに頼って世界の謎に取り組んだ。
今の科学から見れば、それはほとんど子どもだましみたいなものだ。だからその観点から言えば、古代の自然哲学は、たしかに科学に取って代わられたと言えるかもしれない。
いや、むしろ、自然哲学は自然科学へと“進化”したのだと言うべきだろう。宗教が哲学のお母さんだったように、哲学もまた、テクノロジーの進展に伴って、近代の科学を生み出すことになったのだ。
でもその一方で、哲学は科学とは別の方向にも自らを進化させてきた。
その生みの親こそ、タレスら自然哲学者たちから1世紀あまり後に登場した、西洋哲学の父ソクラテス(とその弟子プラトン)だった。
ソクラテスはこんなことを考えた。
哲学が真に考えるべき問題、それは、自然哲学が問うているような“自然”や“世界”についてじゃない。むしろ、この世界を問うている、わたしたち“人間”自身である!
古代ギリシアのアポロン神殿には、「汝自らを知れ」という格言が刻まれていた。ソクラテスは、まさにこれこそ、哲学が探究すべき根本テーマだと言ったのだ。
知の大革命
“外”から“内”へと目を向けること。これはある意味では、人間の精神が幼年期から青年期へと成長したことのあらわれだったとも言える。
赤ちゃんや子どもは、いつでも“外”の世界に興味津々だ。虫や葉っぱや土なんかをさわって、大げさに言えば、世界がどうなっているのかを知ろうとする。
でも、思春期をむかえるころから、僕たちはだんだんと自分自身に目を向けるようになる。「どんな人生を生きるべきだろう?」「自分には何が向いているんだろう?」「幸せってなんだろう?」そんなことを考えるようになる。
自然哲学からソクラテス哲学への展開もまた、おそらくはそれと同じような出来事だったのだ。
ちなみに、ソクラテスが生きたのと同じ紀元前五世紀ごろ、中国には孔子が、インドには仏陀が登場している。彼らもまた、「人間とは何か?」「人生はどう生きるべきか?」
といった、まさに“人間”について考えた人たちだった。
同じ時代、同じような問いを考えた人たちが、不思議なことにまったく異なる文明に現れた。
今から2500年前、人類は、突如として知の大革命を経験したのだ。
「事実の世界」と「意味の世界」
ソクラテスの考えを、哲学と科学の関係という観点から、僕なりに大胆に言い直してみたい。
科学が明らかにするのは、いわば「事実の世界」のメカニズムだ。それはたとえば、物を手放せば落ちるとか、DNAは二重らせん構造をなしているとか、人は恋をしている時、脳の腹側被蓋野が活性化しているとか、フェニルエチルアミンやドーパミンが分泌されているとかいった、文字通り「事実」の世界だ。
それに対して、哲学が探究すべきテーマは、“真”“善”“美”をはじめとする、人間的な「意味の世界」の本質だ。
「“ほんとう”のことってなんだろう?」「“よい”ってなんだろう?」「“美しい”ってなんだろう?」そして、「人生いかに生くべきか?」
こうした意味や価値の本質こそ、哲学が解き明かすべき問いなのだ。
僕たちは、科学が対象とする「事実の世界」だけじゃなく、豊かな「意味の世界」もまた同時に生きている。恋をした時の僕たちは、フェニルエチルアミンがどうと言うより、その味わい深い恋の「意味の世界」をこそ生きる。
科学は、恋をしている人の脳からどんな化学物質が出ているかを明らかにすることはできる。でも、僕たちにとって恋とはいったい何なのか、その“意味”の本質については、ほとんど何も教えてはくれない。
それを明らかにするのは、哲学の仕事なのだ。
僕らは「意味の世界」をこそ生きている
さらに言えば、哲学が探究する「意味の世界」は、実は科学が探究する「事実の世界」に原理的に先立つものだ。
え? どういうこと?
と、疑問に思った人は多いんじゃないかな。
僕たちの多くは、ふだん、世界は科学的な法則に支配されていると思い込んでいる。天体法則とか人体のメカニズムとか、脳の働きとかDNAの仕組みとか、そういった“事実”こそが先にあるのであって、“意味”は、そうした事実に人間があとからくっつけたものだと考えている。
でも、事態はまるっきり逆なのだ。
というのも、いわゆる“事実”は、僕たちの「意味の世界」のアンテナにひっかからないかぎり、決して“事実”として認識されることがないからだ。
たとえば、天体法則という“事実”が存在するのは、僕たちがこの法則に“意味”を見出しているからだ。
太古の昔から、人類は農耕を行うためにそのメカニズムを知る必要があった。あるいはその“美”に魅せられて、天体を観察しつづけてきた。
同じように、人体のメカニズムを僕たちが知っているのは、それが僕たちにとって意味あるものであるからだ。健康や長寿に“意味”を見出しているからこそ、人類はその謎に挑みつづけてきたのだ。
もしも僕たちが、こうした“意味”のアンテナをもっていなかったなら、天体法則や人体メカニズムといった“事実”は、僕たちにとって存在することさえなかっただろう。
「絶対の真理」なんて(分から)ない
いやいや、それはそうかもしれないけど……と、まだ腑に落ちない方も多いだろう。
たしかに、“事実”は僕たちの“意味”のアンテナにとらえられないかぎり、僕たちにとって存在しないのかもしれない。でも、たとえそうだったとしても、天体法則はやっぱり客観的に存在するし、DNAは太古の昔から二重らせん構造をなしていたんじゃないの? つまり、科学的な事実は、人間がいようがいまいが、やっぱり客観的な事実と言えるんじゃないの?
――そう思う人もいるだろう。
でもそれは本当だろうか?
極端な話をすれば、もしも人類よりはるかに知能が進んだ宇宙人がいたとしたら、彼らの住む「事実の世界」は、僕たちの世界とは大きく異なっているだろう。三次元や四次元どころか、彼らは二十次元くらいの世界に生きているかもしれない。その世界では、DNAは二重らせん構造をなしていないかもしれないし、時間だって存在していないかもしれない。
いや、そんなとっぴな例を持ち出さなくても、もっと身近な、たとえば犬やネコやカラスなんかを考えてみてもいい。
犬やネコは、人間のようには色が認識できないと言われている。一方カラスは、人間には認識できない紫外線を認識できるという。だから、どうやらお互いを黒色とは認識していないらしい。
要するに、犬やネコやカラスは、僕たちにとっての「事実の世界」と、いくらか異なった世界を生きているのだ。
それはつまり、僕たちもまた、「僕たちにとっての事実の世界」をしか生きられないということだ。
ニーチェは次のような有名な言葉を残している。
「まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ」
と。そして言う。
「事実がありうるためには、一つの意味がまず置き入れられていなければならない」
と(『権力への意志』)。
僕たちは、僕たちの「意味の世界」に照らし出されたかぎりにおいてしか、「事実の世界」を知ることはできないのだ。
無色透明な「事実の世界」(客観的な真理)なんて、僕たちは決して知りえない。それはいつも、僕たちの「意味の世界」の色を帯びているのだ。
これが、「意味の世界」は「事実の世界」に原理的に先立つということの意味だ。
哲学は科学にどう役に立つ?
こうして、「意味の世界」の本質を明らかにする哲学は、科学の営みの土台をなすものだと言うことができる。
繰り返し言ってきたように、「事実の世界」は「意味の世界」を土台にして成り立っている。それはつまり、僕たちは、「意味の世界」のことを深く理解しないかぎり、「事実の世界」のこともちゃんと理解できないということだ。
じゃあ、そんな「意味の世界」を探究する哲学は、現代の科学にいったいどう役に立っているんだろうか?
次回はこの点について、具体的にお話しすることにしたいと思う。