ちくま文庫

根なし草のやり方
半村良『小説浅草案内』解説

浅草を描いた半村良の傑作に、浅草に20年以上暮らした経験のある、いとうせいこう氏が解説を寄せてくれました。

 浅草には私も二十年以上住んだ。
 今はいわゆる谷根千方面に引っ込んだが、本籍地はいまだに花川戸にあるし、しょっちゅう浅草にいる。
 この原稿を書き出すほんの数時間前も私はやはり浅草にいた。名物のような浅草っ子が亡くなって一周忌を迎えたので浅草ビューホテルで偲ぶ会があり、ずいぶんよくしてもらっていた自分が行かないはずもなかったのだ。
 立食の会に列席しているのは何度かお話をうかがったことのある浅草寺のお坊さんから新門の頭、歌舞伎役者、江戸文字の大家、日本舞踊の先生、九十歳を越えていつも魅力的なゆうこ姐さん(浅草を出たことがないのが自慢だ)、商店街の先輩方、あるいはそば屋の大将は着流しに渋い色の袢纏をはおり、細い帯を体の前でちょっきり結んでいる、昔六本木で知らぬ者がいなかった遊び人で今は葉山にいるアキちゃんの着物はまた江戸の職人風ではなく優美でぞろりとした着こなしが独特だ。
 と、語り出せば私もここから自分の浅草案内を書いてしまいそうなほど、そこには人間という名の物語がぐるぐると渦巻いている。むろん場所の独特さがそうさせるのだし、その地でたまたま現代に生まれ育った者の意気がりやら積もり積もったお洒落な気質がこちらの好奇心をそそり続けるのだ。
 私も引っ越してきてすぐ半村良さんのこの『小説浅草案内』を読んだ。谷崎が書く浅草、川端が書く浅草、安吾が書く浅草と、私はことあるごとに浅草物を吸収したかった頃のことだ。ごたぶんにもれず、私は浅草にぶん殴られ、甘い蜜のようなものを傷口に塗られ、奥の奥へ連れ込まれたり突っ放されたりしながら、他の物書きはどうだったのかを考えたかったし、感じたかった。そうでなくては自分は町の悪女性のようなものに好き放題振り回されるばかりだと思った。文豪の皆さんが残した文章は溺れる身がつかむ土手の柳の根のように、当時の私の目の前にうねっていたのである。
 そして『小説浅草案内』は誰が書くより真に迫っていた。ほんの少しずれただけの同時代を生きることが出来るからだったし、書き手自身が本当に住み着いてこそ書けるタイプの作品だったからでもあり、私は中に出てくる喫茶店をスーパーの買い物の途中で確認したり、観音裏に小唄の稽古に行く折などにわざわざ一本別な道を行って半村さんがふらりと出てこないかと思ったりもした。
 私は柴又の隣町で育ったから本当に深く仲よくなった浅草の人たちには「ああ、在か」と鼻で笑われる。半村さんも生まれは下町ながらわずかに中心と外れた場所で過ごしたようだ。つまり私たちはともに下町の雰囲気は濃厚に知っていながらも「根なし草」で、おそらくだからこそ浅草により強く魅入られる。そこは江戸の昔から根なし草の生きる力を吸い込んで光り輝いてきた場所だからであり、三代以上そこに住む生粋の浅草人ならばこそ特にその「よそ者」の潜在能力を知っているのだと私は思う。
 しかしもちろん、もし「根なし草」が浅草にぞっこん惚れ、長く住み、いかにも浅草の人のようになってしまえば事情は変わる。紛れもない浅草人にとってはしょせん「根なし草」は「根なし草」であって、そうでなければ彼らに愛されることはないはずなのだ。だがだからといって、「根なし草」は浅草を憎むことは出来ない。自分の能力を最も見事に引き出してくれるのもまた浅草だから。
 このジレンマの中に半村さんは生きたのである。生きて証拠を残した。
『浅草よ、私をこのままつかまえておいておくれ。私はお前が好きなのだ』
有名なラストの一文に私がジンジン感じるのは、その逃れがたく背反する二つの命題に引き裂かれる者の叫びだとわかるからだ。当然、実はそれは人間が生きる条件そのもの、人生の初めから終わりにまでつきまとう愛とアイデンティティが満たされぬという真実である。だからこの書を『人生案内』と呼び換えてもいいのだと私は思う。
 そうした厳しい現実を前にして、けれどいまだ判決の下らない宙ぶらりんの、傷つかぬうちの一時の幸福を作者は描く。じんわりと苦く甘い感覚で私たちがこの「小説」を読むのは、きっといつか何かが作者に突きつけられるだろうと感じるからで、しかし半村良は一枚も二枚も上手だからそこまでは描かない。
 そしていかにも浅草にありそうな会話を弾ませて様々な人物像を楽しげに書いてゆく。実際、半村さんは充実した日々を送っていたに違いない。「根なし草」は力に満ちて伸び、太陽をあおぐ。滋養も水も土地が限りなく与えてくれる。
そんな作品の中にこういう文がある。
『私は他との衝突を未然に回避するセンスを、「粋」と呼ぶのだと思っている。だから、「粋」は人ごみから生じたもので、あまり目立つのは「粋」なことではなかろう』
充実した日々の幸福の中で、半村さんがいかにきちんと「根なし草」としての分相応をわきまえようと警戒し続けていたか、私はこの部分でよくわかる。
 下町に憧れる人はよく「粋」と言いたがる。しかしそう言いたがること自体、決して粋ではない。だから浅草人自体、それを避ける。避けて例えば「様子がいい」と言う。あるいは「あの人はさっぱりしてる」と言う。より感覚的に言い表すことで、「粋」のどこかうさん臭いレッテル効果を遠ざけるのだ。
 ここに出てくる半村流の「粋の定義」、その独自な視点からの見事な切り込み方には工夫があり、浅草人の心を「おっ」と思わせる内実がある。「粋」と浮ついた言い方をし、中身がよくわからない「無粋(ぶいき)」を半村さんは周到に避けているのである。
まさに『あまり目立つのは「粋」なことではなかろう』という、細かい気配りがそこにはピリピリと張りつめている。いや気配り以上の、猛獣に食われぬように耳を澄ます生き物のごとき繊細さが、浅草で生きていく「根なし草」には必要不可欠だから。
『その浅草を、私は少年時代の視点から、夢の町として見ていたのだろう。……それでは浅草が迷惑する』
 とあるのは、だからこそ心にしみる文だ。
私自身もまた幼い頃から、正月に来る信じられないほど賑わった浅草に目を見張ったクチである。その賑わいが一時期すっかり去って、浅草人たちから「終わっていくこの町を見届けてくれ」とまで私は言われたし、その頃に半村さんも浅草に住み出したはずだ。
 したがって現在の、外国人観光客含めて新しい賑わいを作り出した浅草を半村さんは見ていない。今世紀の初めに作者は俗世を去ってしまった。
とはいえ、浅草にはいまだに寂しさがある。独特の薄闇が誰かの境涯の浮き沈みをより濃く映し出してしまう壁や底辺がある。
 浅草の輝きの真ん中に潜むそんな空隙を、このニヒルな中年男の語り口を持つ作品は、彼の『少年時代の視点』を隠すことで描いている。
 つまり「根なし草」のやり方で。

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