武田砂鉄

第1回 とりあえず、山手線へ

隣は何を読む人ぞ──本と人との出会いは無数にある。電車の中も例外ではない。隣に座った見知らぬ人が読んでいる本をチラリと見ると、そこには……。究極の偶然にまかせて本を探す、本好きのための読書コラム、連載第1回!

 本読みは、漏れなく本読みが好きだ。例外はない。電車のなかで、読書に熱中している姿を見つけると「あっ、味方だ」と思う。味方は、どんな本を読んでいるのだろう。つい、のぞきみする。いかにも文学少女っぽい風貌の人が、モテるための30みたいな本を読んでいたり、モテるための30をコンプリートしていますと体全体で宣言しているような人が、グラシン紙にまかれた古典文学を読んでいたりする。その選書は大抵の偏見を負かす。車内の読書家探訪は、身勝手な落胆と歓喜が入り交じる。「最近読んで面白かった本は?」というかしこまった問いには、玄人素人問わず、ついつい気取った回答を寄せがち。だからその手の読書特集って、実態とはちょっとだけズレていると思っている。ならば今、「味方」は何を読んでいるのか、車内をのぞきみしていくことにした。凝視されるのは不快だろうから、「チラ見」を唯一最大のルールとする。

「ペロッ」と「デロッ」

 日曜日の早朝、新宿駅から山手線外回りに乗る。ビルの警備員さんだろうか、「遊んでいたのではありません。働いていたんです。」と、ほとばしる疲労感を全身で訴えてくる初老の男性が、図書館で借りた万城目学『プリンセス・トヨトミ』を読んでいる。ページをめくるたびに親指にツバをつけるのだが、その量がどうにも多い。「ペロッ」ではなく「デロッ」。ページをめくる度に端っこがウェットに。フライドポテトを食べながら読んだような痕がついている。
 年を重ねるたびに、手先が乾燥する。「ペロッ」の誘惑にかられる。お経を読むように抑揚のない声でひたすら自著を読み上げていた大学教授の授業は、「出席するだけで単位をくれる」という一点のみで大人気の授業だったが、彼が時折配布するプリントは、とにかく「ペロッ」ではなく「デロッ」。女子学生を中心に、とにかく不評だった。小さな悲鳴すら聞こえた。誰かがどこかで申し立てたのか、小さな悲鳴に気づいたのか、いつの頃からか、だいだい色の指サックをはめるようになった。
 図書館がベストセラーを何冊も仕入れる複本購入問題が聞こえるたびに「本は図書館じゃなくって、やっぱり新刊書店で買おうよ」とのアピールが繰り返されるが、いまいち説得力をもたない。この「図書館本が『デロッ』を繰り返してきた可能性」を伝えることは、思いっきりネガティブキャンペーンとはいえ、ありきたりなスローガンを繰り返すよりは説得力になるのかどうか。

一流の育て方

 目白駅から乗り込んだ女性が、深刻そうな顔で本にかぶりついている。隣に座ってのぞきみすると、「親の会話が、子どもの人間性を形づくる」「子どもの前では、冗談でも偏見を口にしない」といった文言が見える。こぎれいなレイアウト。これは最近、書店で頻繁に見かけるビジネス書、ミセス・パンプキン&ムーギー・キム『一流の育て方 ビジネスでも勉強でもズバ抜けて活躍できる子を育てる』だろう。
 子どもの前で冗談まじりに偏見ばかり言い放つ親に育てられた私は、口を開けばその8割が偏見を漏らす大人に仕上がったが、偏見を撒きつつ相手の反応を見定めながら距離の詰め方を考えるという特異なコミュニケーションを得たので、その「育て方」にはなかなかの感謝がある。それにしても、子どもたちが何よりも頭を抱えてしまう「親の育て方」とは、親の本棚に「ズバ抜けて活躍できる子を育てる」というサブタイトルの本を見つけたときではないか、と思うのだがどうだろう。

「『最悪』だけに最悪だよ」

 駅に停車するごとに車両を変え、味方の存在を観察する。文庫本を読む中年男性、隣には妻と子が座っている。組版を見れば、講談社文庫だとすぐにわかる。「めぐみを捕まえたとして、何ができるのだろう」「川谷の表情には一切の色彩がなかった」などの記載を確認、ノンブルの横には「最悪」とある。分厚い。奥田英朗『最悪』で間違いないだろう。ときおり、妻と子が話しかけているが、上の空で返している。
 日暮里駅に停車したところで、「上野駅で緊急停止ボタンが押されたため、当駅でしばらく停車します」とのアナウンス。『最悪』を読んでいるお父さんから「『最悪』だけに最悪だよ」とのつまらないジョークを期待するが、「京成本線で京成上野駅を目指すって手もあるな。でもまあ、このアナウンスの感じだとそう時間はかからないだろう」と、根拠のない考察を述べると、その通り、間もなく電車が動き出すのだった。『最悪』が終盤戦にさしかかっていたことに気づいたからか、妻も子も、父のことを気遣い、上野駅まではとっても静かにしていた。電車が止まる寸前まで読み続ける。「お父さん、お父さん」と2回言われてようやく立ち上がった。
 車内にはまだまだ本読みが溢れている。いろんな路線へ、いろんな時間帯に。しばし、“のぞきみ”読書に勤しむことにした。