武田砂鉄

第3回 しおりと品格

車中読書に欠かせないもの、といえばしおり。何気ない小物にこそ、本好きたちのこだわりが出るものかもしれない。そして本とともに垣間見えたものとは──。究極の偶然にまかせた読書調査、第3回。

宮脇俊三の歩いた道

 ひと頃、宮脇俊三の鉄道紀行文を耽読していた。誰よりも車窓を眺め続けていた宮脇俊三が、その車窓の一部になることはとても珍しく、日々の散歩について記した「線路沿いの道」という短いエッセイはなかなか異色だ(初出『別冊サライ』1997年12月27日号)。
「私が住んでいる東京都世田谷区松原四丁目は鉄道の宝庫である。わずか一キロ余四方のなかに小田急線、京王線、井の頭線、東急世田谷線が『井』の字形の鉄道網を形成している。鉄道好きにとっては、まことに恵まれた環境である」
 宮脇は、「井」のなかでとりわけ世田谷線を贔屓にし、その線路沿いを頻繁に歩いた。「戦前のチンチン電車の面影を残している」世田谷線の光景は、今も変わりなく、2両編成がこぢんまりと行き交っている。線路沿いにはちょっとわざとらしいほどに草花が生い茂り、お散歩中の子どもたちが保育士さんに手を振らされ、おそらく宮脇がそうであったように、木陰を探しながら老人がゆったりと歩を進めている。線路沿いを散歩する宮脇は、「沿線のこざっぱりとした喫茶店で、電車の音を聞きながらコーヒーを飲むこともある。老いのなかの、幸せなひとときではある」と締めくくっているものの、実際には、職業病のように一駅間だけ乗ることもあったという。

はらはらと落ちたもの

 昼下がり、下高井戸駅から三軒茶屋駅までの17分で、人が何を読んでいるのかをのぞきみする。いわゆる横長のロングシートではなく、バスのように縦に座席が並んでいる世田谷線は、前方の車両が進行方向に椅子が向かい、後方の車両は進行方向とは反対に椅子が向かう。15分弱というのは十分な読書時間ではないけれど、活字中毒者にとって手ぶらはキツい。早速、目の前で雑誌連載の宮部みゆき「この世の春」を開いた女性が読んでいるのは「週刊新潮」、斜め前には小保方晴子が瀬戸内寂聴と対談した「婦人公論」を読む女性がいる。入口付近の座席で開示される白いワンピース姿の小保方に、ほとんどの人が目を向けては、表情を変えない程度に睨みつけている。
 小田急線・豪徳寺駅に隣接する山下駅では、上りと下りが隣り合って止まる。手の届きそうな距離で、逆方向の列車の客が同じ方向を向いて座っている。何がしかのコミックでは、何がしかの大爆発が起きているのが分かる。それほどに近い。座席が埋まり、つり革につかまる乗客も増えてくる。ブックカバーをして文庫を読みふける、凛とした立ち姿の中年女性。本の間からヒラリと花びらのようなものが落ちる。拾って、本に挟み直す。凛とした所作、そしてその所作に沿うようなしおり。そもそもしおりなど必要としない人もいるし、チラシやガムの小袋で代用する人もいる。でも私は、花びらをしおりに。これまたわざとらしいほどに世田谷線に似合う。しおりと品格。
 降りる駅が近付いたのか、本を閉じようとしおりを抜き取る姿を確認すると、なんとそれは、花びらではなく飴玉の袋の切れ端だった。さっき封を切られたところです、という佇まいではなく、もう幾度と本に挟まれて参っちゃいますよ、とでも言いたげなやつれ具合。しおりに品格などない。

あの日選んだ本

 私は買った時のレシートをそのまましおりにすることが多い。同じようにして、時折、古書店で買った本に、その本を新刊で買った時のレシートが残っていることがある。まさしくネット書店のように「この商品を買った人はこんな商品も買っています」が、極めてアナログな形で開陳されている。先日読んでいた川端康成に挟まっていたのが開高健で、どうにも食べ合わせが悪そうなのだが、それを買ったのが新幹線に乗り込む前の東京駅だと分かれば、この人の長旅はどちらに託されたのだろうかと想像する。
 宮脇は、散歩のあとに、スーパーに寄って大根などをぶらさげて帰ると近所の主婦たちに同情の目で見られたという。ああまさにそういう感じの人が歩いているなと、目で追う。帰宅後、宮脇俊三の紀行文をあれこれ引っ張り出してみると、『最長片道切符の旅』には自分が買った時のレシートが挟まっていて、一緒に購入した本が内田百閒の『阿房列車』で、なんて無難なセレクトだろうと、自分のつまらなさを呪った。