昨年、TPP(環太平洋経済連携協定)の交渉参加の是非が大きな論争になりましたが、その際、「第三の開国」ということがしきりと言われました。「第一の開国」は幕末・維新、「第二の開国」は敗戦であり、現在は「第三の開国」を迎えているというのです。
私はこの通俗的な歴史観に、大変な不快感を覚えていました。というのも、それが「幕末は黒船来航による外圧によって近代化し、敗戦時は占領によって民主化したのだから、現在も、グローバル化という外圧に屈すればよいのだ」という主体性を欠いた外交姿勢を正当化するものに思えたからです。実際、「日本は、外圧がなければ変われないのだ」などという台詞を吐いて恥を知ることのない政治家や知識人が、後を絶ちません。
しかし、我が国の歴史を築いてきた先人たちは、本当にそのような外発的で順応主義的な態度に終始してきたのでしょうか。
そう感じた私は、「開国」を唱える時流に逆らい、幕末の尊王攘夷論のバイブルとして悪名高い会沢正志斎の『新論』を繙いてみました。そして、この書が狂信的な排外主義というイメージとはまったく異なり、卓越した先見性、精緻な情報分析、冷徹な論理によって貫かれていることを発見しました。それは、TPPの問題を「開国か、鎖国か」などという大ざっぱな空気だけで議論している現代日本人にはまったく期待できないような、高度な戦略的知性です。
驚いた私は、思わず正志斎の他の著作も読み始め、研究書にも目を通しました。そして、正志斎が古学の伝統を引き継いでいることを知りました。「古学」とは、伊藤仁斎に始まり、荻生徂徠が発展させた日本固有の儒学の一学派です。そこで私は、正志斎の思想を解読すべく、伊藤仁斎そして荻生徂徠にさかのぼってみて、古学の伝統の中に、現代でも十分に通用する優れた思想があることを学びました。この古学の思想は、現代哲学の用語で敢えて一言にて要するならば、「プラグマティズム」と呼ぶにふさわしいものです。
正志斎の尊王攘夷論は、西欧列強の脅威に刺激を受けた感情的反発などではありませんでした。それは、古学の伝統から受け継いだプラグマティズムを国際問題に応用することで編み出された理論だったのです。正志斎は、時代の制約の中にあって現実を直視し、実践的に思考していました。そして、国民国家を建設して富国強兵をはかるという結論に達したのです。
さらに私は、このプラグマティズムとナショナリズムの思想が、明治維新後、福沢諭吉に引き継がれていることに気づきました。一般に、福沢諭吉と言えば、攘夷論を批判して文明開化を説き、攘夷論者から命まで狙われていた人物として知られており、その思想は正志斎と対極にあるもののように考えられています。しかし、私の読むところ、福沢の文明論とは、「天皇を中心として国民を統合し、国民の連帯から生じるナショナリズムのエネルギーをもって、西洋列強と伍して独立を確保できる強力な近代国民国家を建設する」という構想でした。そして、この福沢のナショナリズムの構想を支えたのもまた、「実学」というプラグマティズムでした。福沢諭吉とは、会沢正志斎とおなじくらいに尊王攘夷論者であったのです。
本書は、プラグマティズムとナショナリズムをキーワードにして、伊藤仁斎、荻生徂徠、会沢正志斎、そして福沢諭吉という四人の思想家を直列させ、近代前後で断絶しない日本の政治思想の伝統を探っていきます。そうすることで、現代日本人が「外圧がないと変われない」などという敗北主義の呪縛から解放され、危機を乗り切る戦略的知性と独立自尊の精神を回復できればという願いを込めて、少々大胆ではありますが、本書を『日本思想史新論』と名づけた次第です。