昨日、なに読んだ?

File37. 「わたし」が「わたし」を考える本

円城塔『プロローグ』、笠井康平『私的なものへの配慮No.3』、フェルナンド・ペソア『ポルトガルの海』『不安の書』

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホ、タブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。 【松原俊太郎(作家)】→→メレ山メレ子(文筆家)→→???

 自分の書いた戯曲が上演されるときはなるべく劇場で観るようにしているので、先の6月は東京に滞在していた。夕方、横浜県立芸術劇場(KAAT)に電車で向かっているとき、向いに座る人々を眺めてみると、ほとんどの人がスマートフォンと見つめ合っていた。ごくありきたりな東京の風景である。ただ、そのなかに、ごくたまに、ぼんやりと車窓から見える景色あるいは車両内の虚空を見つめている人がいて、いいなあと思う。その顔にはポエジーがあって、私はその顔を読みたいと思った。しかしながら、これは退行かもしれない。土さえあればいつのまにかどこにでもパンジーが植えられていることに気づくように、本当はスマートフォンと相対する顔にもポエジーを発見すべきなのだ。円城塔の『プロローグ』(文春文庫)にはそんな新しいポエジーがある。円城塔は日常に紛うことなく紛れ込んでいる機械と、文字上で生まれさせられては死なされていく数多の小説の登場人物たちとにアナロジーを見出し、これまで省みられることのなかった陰の部分に光を当てた。私はそんな文字上の文字通りの「人」にすら感情移入できるのだから、スマートフォンを覗きつづける人たちとそのスマートフォンとにも、これから末永く付き合っていけるだろう。「というように、情景はすぐ文字の海に沈んでいく」。アイロニーとユーモアと正気の推移がどこまでも鮮やかだ。
 電車が日本大通り駅に着いて、徒歩5分で劇場に入り、百数十人の観客とともに席に座って、観客となった私は観客について考えていた。「観客は自分(わたし)の見たいものを見る」演劇や映画において大方揶揄として言われることがあるが、観客は「わたし」に関係するものしか見聞きすることができない。登場人物の「わたし」が観客の「わたし」とどうやって、どのような関係を持つのか、その問いは今でも明かされていないし、それは「わたし」それぞれによって異なるだろう。笠井康平の『私的なものへの配慮No.3』(「いぬのせなか座」のウェブサイトで購入可能)は、現代の「わたし」なるものを規定するものについての詩的考察に満ち満ちている。本文と注釈が見開きで同時並行し、最初はどうやって読めばいいのか当惑したが、徐々に本文と注釈の掛け合いと視線の往復運動にドライブがかかってきて興奮とともに一気に読了した。注釈はフローベールの『紋切型辞典』さながら紋切型を嘲笑い、本文とともに日本の旧態依然の「わたし」環境を描写し、更新する。
 本書を読んでいて私は、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアがアルヴァロ・デ・カンポスという別人となって書いた「海の頌歌」(『ポルトガルの海』池上岑夫編訳、所収)の新しい未来派宣言のような詩を思い出していた。ポエジーとは無縁とも思われる無機質なデジタル技術と法文を揶揄しつつもそれを反転させて「わたし」のあり方のほうに勝機すらも見出そうとする笠井の視点は、「わたし」を虚構化して別の「わたし」になりつつ書いたペソアのやり方と通じている。カンポスは熱く、笠井はクールだが、冷たいものは熱いものを思い出させるのだろう。ペソアを思い出すと、いつも『不安の書』(高橋郁彦訳、新思索社)40に書かれた、「わたしは、わたしに見えるものと同じ大きさ!」という言葉を思い出す。観客それぞれの「わたし」が、小さかろうが大きかろうが舞台を通してそれまでより大きな世界を見て、「わたし」と「同じ大きさ」に感じたなら、それ以上のことはないように思う。これは文字には決してできないことだ。 

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