昨日、なに読んだ?

File107. 小説に煮詰まるたびに開いては、すぐさままた閉じる本。
新潮クレスト・ブックス短篇小説ベスト・コレクション『美しい子ども』(松家仁之編)

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホやタブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。今回のゲストは、作家の小池水音さんです。

 新潮クレスト・ブックス短篇小説ベスト・コレクション『美しい子ども』には、さまざまな国の作家による、12篇の小説が収録されている。ロンドンに生まれ3歳で渡米した、ベンガル人の両親をもつ書き手。ベトナムに生まれ、生後3カ月でボートピープルとしてオーストラリアに渡った書き手。アメリカに生まれユダヤ教正統派コミュニティに育ち、やがて棄教した書き手。あるいは、ロシア、ドイツ、ベルギーの書き手たち。

 その出自が作品の内容に色濃くあらわれている作品もあれば、かけ離れた世界を描く作品もある。ベテランによる熟練の逸品もあれば、新人による野心作と呼びたいものある。ではこの12作における共通点があるとすれば、なにか。そのひとつは、作品の語り手が(それが三人称であるときも一切変わりなく)いままさにここで、すぐそばにいて語っているという、その“近さ”の感覚を呼び起こすところだとおもう。

 古風なレストランのテーブルに置かれた、ちいさなロウソクのように小説は語る。光量こそ陽光とも、また機能的な天井照明ともかけ離れているけれど、そのちいさな光はすぐそばにあり、そして人の目を引く。おなじ形を保って、でも一瞬一瞬生まれ変わってるみたいにして燃えている。見つめるうちに、手を近づけて温度をたしかめたくなる。火傷をしたっていい、この手で、この光に触れてみたい。そうおもいかけたとき、短編小説はあっさりとその世界を閉じる。

 刊行は2013年8月。僕はそれを大学4年生の晩夏に手に取った。数カ月後にノーベル文学賞を受賞するアリス・マンローを知ったのも、いま『緑の天幕』が新たに読まれているロシアのリュドミラ・ウリツカヤを知ったのも、『すべての見えない光』を書く以前のアンソニー・ドーアを知ったのも、この一冊からだった。

 あれから10年が経ち、小説を書くようになっている。新人賞を受賞した「わからないままで」という小説は、短い紙幅ながら6章からなっている。各章で語り手が変わり、時系列も前後する。小説の書きかたなどなにひとつ(それこそ)わからないままで、あのときただ腐心していたのは、ひとつの“場面“という単位をひたすらに、書いている自分自身にとってたしかなものにしようということだった。テーマも、文体も、人称も、時制も、全体の構成も、さしおいて。

 この原稿を書きながらいま、『美しい子ども』を手に取る。でたらめに開いたページに次の一節を見つける。

聴診器の円盤が、角氷のようにひんやりと胸にあたる。この氷が溶けて流れる、という想像がはたらく。下腹に落ちていく氷をオリヴィアの目が見下ろして、その道を舌先がたどっていく。舌の経路を俺が見ている。ぞくりと震えが来る──。医者が何か言っているらしい。
(ナム・リー「エリーゼに会う」小川高義 訳)

 老画家が、妻と娘を捨てて選んだ愛人との情事を思い出す。悪性が疑われる結腸ポリープに苦しみ、これから肛門鏡検査を受けようという診察の真っ最中のこと。みだらで、浅ましく、でも輝かしくもある。老いと痛みと意識の混濁のさなかで、たしかにこのような一瞬こそ、ひとには訪れるものかもしれない。そのように感じる“たしかな場面”のひとつ。

 すでに何度も読んでいるからこそ、その後の顛末はわかっている。老画家は後日、チェリストとなった娘に17年ぶりに会うため瀟洒なレストランを予約し、タキシードめいた格好までする。しかし、1時間半もの待ちぼうけの末、娘に会うことは叶わない。娘のカーネギーホールでのコンサートの夜、彼は終わり際に当日券で紛れこむ。演奏する娘の姿に彼は「俺のような弱さをすっかり追い出してある」強さを見てとると、曲の終わりを待つことなく、会場を後にする。

 そうした成り行きをあらためて読んでたしかめることなく、僕はいつも本を閉じる。それは、ほんの2、3行でもう充分、求める感覚をしっかりと思い出すことができるからだ。それはつまり、ある場面──書き手の実体験であろうと、まったくの創作であろうと──を鋭利に、鮮やかに描ききること。それさえできれば、その場面の背後に横たわる人物の来歴や、土地の空気や、その小説が孕みうる時間の尺度のようなものは、自然と匂い立ってくる。たしかなひと場面は、次なる場面を連れてきてくれる。だからいまは目のまえにあるまだ乏しい灯りを、じっと見つめていればいい。

 そうした感覚を頼りに、これまで「わからないままで」「アンド・ソングス」「息」、また「小説 こんにちは、母さん」という4つの小説を書いてきた。だからどうということもないのだけれど、『美しい子ども』は僕にとってこの10年、直接には内容の真似のしようもない、けれどその“ありかた”を追い求めたいと感じるお手本だった。古めかしいクロスのかかる12のテーブルに灯る、12の光。すべてを煌々と照らすのではなく、光と一緒に影をも落とさせて、手に触れれば火傷もする、近しい灯り。

「そよ風が吹いている」とシルヴィアが言った。「もしかしたらあの雲が雨を降らせてくれるかもしれないわね」
 雲は高く白く輝いていて、ぜんぜん雨雲のようには見えなかった。それに、そよ風は、窓を開け放して走る車に乗っているからだった。
(アリス・マンロー「女たち」小竹由美子 訳)

ケヴィンがガソリン代を払っているあいだ、わたしは車の中に座って、高校生ぐらいの男の子がフロントガラスを磨いてくれるのを見ていた。男の子が細長いゴムべらを動かす手つきは、ていねいで心がこもっていて、好きなことを仕事にしているどころか、まさにこれを、このことだけをやるのが昔からの夢だった、みたいな感じだった。ラララ。ガソリンスタンドを出ていく車の中から、わたしはぴかぴかに磨きあげられた窓ごしに彼を見て、あの子にすればよかったかも、と思った。
(ミランダ・ジュライ「階段の男」岸本佐知子 訳)

 たしかな灯りに触れ、すぐさままた本を閉じる。そうしてしばらくぼうっとしていると、やがて自然に、書きかけの小説のつづきをたどることができる。


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