昨日、なに読んだ?

File105. 〈私のシモーヌ・ヴェイユ〉と出会うための本
フロランス・ド・リュシー『シモーヌ・ヴェイユ』/脇坂真弥『人間の生のありえなさ 〈私〉という偶然をめぐる哲学』/今村純子『映画の詩学 触発するシモーヌ・ヴェイユ』

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホやタブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。今回のゲストは、東京大学で、無知から歴史を見る「無知学(アグノトロジー)」の観点から科学史を研究されている鶴田想人さんです。

 シモーヌ・ヴェイユほど、読む人それぞれに、その時々の深さで語りかける思想家はいないだろう。私自身、さまざまな人生の局面で、何度かヴェイユに出会い直している。最初は何がきっかけであったか、岩波文庫の『自由と社会的抑圧』を手にとったのだったと思う。高校を卒業したての頃で、大方、「自由」やら「抑圧」やらといった問題に頭を悩ませていたのだろう。次に出会ったのが『ギリシアの泉』だった。古代ギリシャについて色々と調べていて、その中の「プラトンにおける神」という論考を読んで驚嘆したのだった。
 しかし春秋社版の主著3冊(『重力と恩寵』『神を待ちのぞむ』『根をもつこと』)を買い込んで、それらを貪るように読み始めたのは、あるとき書店でたまたま次の一節に(そのときはフランス語書籍のコーナーで)出会ったからだったと記憶している。

私たちはこの世界で何も所有していない。偶然が私たちから全てを奪い去ってしまいうるからだ。「私が」と言いうる力を除いては。この力をこそ、神に捧げねばならない、すなわち破壊せねばならない。私たちに許された自由な行為など、全く何もない。この「私が」を破壊することを除いては(La Pesanteur et la Grâce, Plon, 1947, p. 73拙訳)。

当時ストア派の著作を好んで読んでいた私は、この冒頭からいかにもストア的な、しかしそれよりもさらに苛烈な言葉に、魂を震わされたのだった。今となっては、なぜ当時の私にこの言葉が強烈に刺さったのか、あまりよくは思い出せないのだが……。
 そんなこんなで、私は大学院でヴェイユの科学思想についての修士論文を書くほどには、ヴェイユの著作に親しんできた。しかし、そうしてヴェイユを「研究」してみて感じたのは、ヴェイユの言葉は自分自身を理解しようとして読むときにこそ、もっともよく理解できるということだ。ヴェイユの思想は、正面から捕まえようとすると、するりと身をかわして逃げていってしまう。しかし何か自分の問題を捕まえようとしてもがいていると、後ろからそっと手を差しのべてくれるのだ。

 ならば、他の人たちには他の人たちのヴェイユ、その人たち自身の問題を通して「出会われた」ヴェイユが、いるのではないか――。そんなことを思いながら、ここでは、最近読んだヴェイユに関する本を3つ紹介していきたい。
 まず、文庫クセジュの1冊として翻訳されたフロランス・ド・リュシー氏の『シモーヌ・ヴェイユ』(神谷幹夫訳、白水社、2022年)。リュシー氏は「シモーヌ・ヴェイユ全集」の編者の一人だけあって、本書はヴェイユの人生と思想に関するさまざまなディテールに満ちている。ドラマチックにというよりは淡々と、ヴェイユがどのような家庭に生まれ、どのような教育を受け、どのような本を読んで、どのような人々と書簡をやりとりするなかで彼女の思想を育んでいったかが記される。ヴェイユはフランスで高等教育を受けた最初の女性たちの一人だったが、そのような女性が決してたどりそうもない道――例えば工場労働への従事――を、その後たどっていった。とはいえ全体として、リュシー氏の描くヴェイユはエリート的で、どこかリュシー氏自身を彷彿させる。ここには教養ある家庭に生まれ、天才肌の兄へのコンプレックスを感じながらも、ひたすら「真理」を目指そうとした知と意志の人ヴェイユがいる。
 次に、脇坂真弥氏の『人間の生のありえなさ 〈私〉という偶然をめぐる哲学』(青土社、2021年)。タイトルが「人間の生はありえない(impossible)」というヴェイユの言葉からとられているように、本書を貫くのは深くヴェイユ的な主題だ。実際、第4章ではヴェイユの「不幸」論に焦点が当てられる。ヴェイユが工場労働を通して手にした「不幸」という概念を、脇坂氏は「私が〈この私〉であるという偶然」にかかわる概念として再解釈してゆく。そして、脇坂氏という「偶然」によってでしかあり得ない仕方で、田中美津、マイケル・サンデル、アルコホーリクス・アノニマス(AA)などの思想や実践が結び付けられてゆく。〈私〉という偶然を受け入れること、それは私が私をコントロールしようとする欲求を手放すことだ。私が逃れようもない〈この私〉、そこにこそ私の不幸と幸福とが根ざしている。リュシー氏が知と意志の人としてのヴェイユを描いたとしたら、脇坂氏はそれらを放棄する人としてのヴェイユを描いたと言える。
 最後に、今村純子氏の『映画の詩学 触発するシモーヌ・ヴェイユ』(世界思想社、2021年)。本書で今村氏は、『となりのトトロ』から『ニュー・シネマ・パラダイス』までさまざまなジャンルの9つの映画を、ヴェイユの眼差しを通して観る。そこでなされるのは、それらの映画をヴェイユの概念的枠組みで分析する、というのとはまったく異なる試みだ。そこには「美」に魅せられたヴェイユがいる。まるでヴェイユがその映画を観て書いたのではないかと錯覚させられるほど、自然なヴェイユからの引用がちりばめられる。ヴェイユは人間の「不幸」を見る人であったにもかかわらず、いやそれゆえにこそ、「美」を見る人でもあった。しかも「美」は「不幸」のなかからこそ輝き出る――ただし、適切な注意力を向けさえすれば。ヴェイユも言うように、不幸はふつう醜いものであり、そこに美を見てとるためには、祈りにも似た高度な注意力が必要だ。ヴェイユではない私たちには、単に注意力によって通常の知覚を反転させること(つまり不幸に醜ではなく美を見ること)は難しい。しかし本書を読むと、映画こそがその不可能を可能に近づけてくれる反転装置なのではないかと思えてくる。

 これらの著作で描かれたヴェイユ像は、いずれもどこか、その著者自身を彷彿させる。人は、自らの問いを通してしか、ヴェイユと本当に出会うことはできない、と言いたくなるのはそのためだ。だが、このような掴み所のなさはどこからくるのだろうか。それは単にヴェイユのほとんどのテクストが断片的であり、ときに矛盾を孕むということに由来するのではないだろう。むしろそれ以上に、ヴェイユのテクストの一つ一つが、いわば「誰かに宛てて」書かれたことと無縁でないように思われる。ヴェイユを読む独特の難しさは、彼女がその思想を、ある特別な親密さの中でしか明かさなかったことにも起因するように思えるのだ。
 例えば『神を待ちのぞむ』は――手紙の部分のみならずその論考までも――ペラン神父に宛てられた「手紙」だと言えるのではないか。また、ヴェイユから膨大なノートブック(「カイエ」)を託されたティボンは、それを自らへの「手紙」として読んで、『重力と恩寵』を編纂したのではなかったか。(余談だが、以前、アメリカ・ヴェイユ学会の会長が、『重力と恩寵』を引用するようなヴェイユの研究論文は認めない、という趣旨の発言をするのを聞いた。むろん編者の手が加わった『重力と恩寵』のテクストからは、「客観的な」ヴェイユ像が描けないというのは一理あるだろう。しかし、ヴェイユにとって、書くことが限りなく「手紙を書く」ことに近かったのだとしたら、「客観的なヴェイユ像」とは何を意味するのだろうか。)晩年のヴェイユと親しかったペラン神父とティボンには、『私たちの知っていた通りのシモーヌ・ヴェイユ』(邦訳は『回想のシモーヌ・ヴェイユ』)という共著があるが、「ヴェイユ像」とは畢竟そのようなものでしかありえないのではないか。私には、ペトルマンの浩瀚な『詳伝 シモーヌ・ヴェイユ』でさえ、ヴェイユが親友に見せた、可能なヴェイユ像の一つとしか思えないのだ。
 ……やや、込み入った話になってしまった。私が言いたかったのは、ヴェイユという思想家には、常に自分のその時々の問いを通じて、出会い直すしかないということだ。ヴェイユも敬愛した批評家ポール・ヴァレリーは、かつて次のように書いた。

ひとりの人間であろうと、ひとつの文章であろうと、このような相反する意見を生み出させるということ以上に大きな名誉があるでしょうか。ある人が本当に死んだとわかるのは、みなの意見が一致するときです。反対にある人に数多くの異なった相容れない顔をわたしたちが十分な理由があって付与することができるときは、その人のひととなりの豊かさを示しているのです(「デカルト」『ヴァレリー・セレクション 下』東宏治・松田浩則編訳、平凡社、2005年、200頁)。

ヴァレリーのいう意味で、ヴェイユは今でも「生きている」のだ。そしてそれは、私たちが何度でもヴェイユに出会い直せるということに他ならない。

関連書籍

フロランス・ド・リュシー

シモーヌ・ヴェイユ (文庫クセジュ)

白水社

¥1,320

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入

今村 純子

映画の詩学ー触発するシモーヌ・ヴェイユ

世界思想社

¥2,970

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入