昨日、なに読んだ?

File116.私は誰かが見ている夢の中の獣、と思う本
内田百閒『虎』『件』『とおぼえ』

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホやタブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。今回のゲストは『棕櫚を燃やす』で太宰治賞を受賞された、小説家の野々井透さんです。


 夢を見ていて目覚めると、とうとう待ち合わせ場所まで行くことができなかった(足が異様に重くて前にぜんぜん進めない夢を見ていた)とか、落っこちそうで胸のあたりがすっとして怖かった、あれは不思議ないきものだった(枯葉でできている巨大な象に跨っている夢)とか思いながら、自分がまだ夢のつづきにいるような感じがする。夢の場所から、目覚めた今この場所へとピントを合わせようとするけれど、なんだかうまくできない。実感が抜け落ちたような、どこか覚束ない気持ちになる。

「そろそろ汽車の通る時刻だと云う事がわかったので、線路を伝わって来る響きに注意していたが、辺りにいる人達も何となく不安そうであった。」(『虎』)

「黄色い大きな月が向うに懸かっている。色計りで光がない。夜かと思うとそうでもないらしい。」(『件』)

「初めての家によばれて来て、少し過ごしたかも知れない。」(『とおぼえ』)

 いずれも、内田百閒の作品の冒頭。
 のっけから、次元を超越している。
 設定だとか、ひとの内面性だとか、時制だとか、そういうものを悠然と飛び越えた、なにかぽかんとしたような、真空みたいなところに百閒の書くものはあるような気がする(そうではないものもある)。
『虎』では、次のようにつづく。
「大概その汽車が通ってしまった後で、虎が出ると云う話であった。私は今日来たばかりで今までの事は知らないけれど、あまり面白い事ではない。」
 線路には、「私」の顔馴染みのようなひとびとがあちらこちらにいて、いつ虎が現れるのかと線路を見ている。「私」はこんなふうに思う。
「どうしてこんな物騒な所に来たかと云う事を今になって考えて見ても、兎に角虎がこの場を退いた後でなければ、何の役にも立たないし、今の自分の気持で、また周囲の取込んだ騒ぎから、そんな事よりは早くみんなと一緒になって、自分一人だけが目立たない様にする事が肝要である。」
 「私」は、今日その場所に来て間もないけれど、早々に「そこ」のひとになってしまって、いろいろの意味や理由は考えない。そのうちに、虎の姿は見えないけれど、その気配をひとびとと「私」は感じる。虎の気配が濃いところを見ないようにじっとしていると、その方へ見物人の男がひとり引き上げられて、宙に浮いて、みんなの前から消えてしまう。
「どうしてこんな事になったのか私には解らない。」
「今まで四辺を石の様に硬くしていた気配がゆるんで、次第に人人の間がざわつき、樹の影のはっきりした地面に、三人五人ずつ人のかたまりが散らばって、話し声も段段賑やかになって来た。」
 これで終わりだ。
 虎が現れるというけれど、気配しかなくて、けれどそれは絶対的な感じであって、虎と思しきものにひとがさらわれるけれど、そのあとは、なにかのどかな雰囲気となる。

『とおぼえ』
 少し過ごしたかも知れない家を出て、「私」は薄暗い道を歩いている。坂を登りきると氷屋がまだ店を開けていて、「私」はそこへ入り、ラムネを飲む。そして、昔、療養中の友人を見舞ったことを思い出す。その帰り道。
「来る時に通った筈だが、丸で初めての所を歩いている様な気がし出した。/水田の中のその道に出てから、急に恐ろしくなり、何が恐ろしいか解らずに足許ががくがくした。」
 「私」は夢中でそこを通り抜け、ほっとしたら氷屋があったのでそこへ入ってラムネを飲んだ。あの時も、今夜もおなじラムネの味がして、「私」はおなじことを考えている、と「私」は気がついて、怖くなる。すると店主がそこへやって来て話しだす。
 店主は人魂が見えるという。外からは、犬が吠えるのが聞える。
「一度鳴き止んで、今度又鳴き出した時は、飛んでもない別の方角に移ってるんです」と店主は説明する。
「鳴く晩と、だまってる晩とあって、それが解ってるのです。鳴きそうだなと思うと、遠くの気配が伝わって来るから」「それで」「その気配と云うものが、そりゃいやな気持ですよ」
「僕もそんな気がして来た。いやだな」と「私」は返事をする。店主は途中で、お客さん、どっちから来ましたか、なんて尋ねる。そうして、先日亡くなった妻が、さっき茶の間に座っていた、と話す。驚いて店の土間へ転がり落ちそうになったら客の「私」がいた、という。「私」は帰ろうと思って席を立つ。すると、店主がどこへ行く、と聞く。家へ帰る、と私が答えると、家はどこですか、と問い、そして言う。
「墓地から来たんでしょうが」
 「私」は、頭から水をかぶった様な気がして、「そうだよ」と答える。そして、墓地へ帰ろうか、という気持ちになる。
「気がついたら、来る時の四ツ辻を通り越して、その先の墓地の道を歩いている。」
 これで終わりだ。
 おなじラムネの味、おなじ犬なのにぜんぜん違う方から聞こえてくる鳴き声、人魂、死んだのに茶の間にいる妻。生きているはずなのに、墓地からやって来たと言われ、そうだった、とわだかまりなく思う「私」。

 こんなふうな短編が、内田百閒には、たくさんある。
「そこ」にいる「私」は、自分だけがなにか異物であることは薄々感じているけれど、その明確な理由は探ろうとせず、ふとした時にやはり私は異物だった、とはっきり気が付いたりする(前出の『件』など)。けれど、終いには私が異物であるという恐れのような気持ちは消え、私にとって奇妙であった場所は「そこ」ではなく、いつの間にか「ここ」へ変容してしまう。
 百閒を読んでいると、不可思議なところへ、ふーっと連れて行かれる。なにか妙なのだけれど、そのなにかは、なにかのままであってほしいような気持ちで、読む。すると、本を読んでいるのだから、私は夢から覚めているはずなのに、夢のつづきに自分がいるようなこころもちになって、いろいろなものがふわふわしてくる。そのうちに、ここにいるはずだった私は、そもそも誰かが見ている夢の中の獣のようなものであった、なんてぼんやり思うのだった。

 

*出典:「件」「虎」(『内田百閒集成3 冥途』ちくま文庫、2002年)
    「とおぼえ」(『内田百閒集成4 サラサーテの盤』ちくま文庫、2003年)

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