昨日、なに読んだ?

File112. 噛み合わない身体について考えながら読む本

『口述筆記する文学――書くことの代行とジェンダー』が話題の田村さんが、二人羽織を基点に、身体論・ケア論の本を紹介してくださいました。

 「二人羽織」という古典的な芸があります。CMなどで見たことがある方も多いと思いますが、袖に手を通さずに羽織を着た人の背後から、もう一人が羽織のなかに入って袖に手だけを通し、二人一組になって一人の人間を演じるのです。その状態で後ろに隠れた人が前の人に物を食べさせたりするのですが、前の人は自分の手が使えず、後ろの人は視界が遮られて前が見えないので、首尾よく運ぶわけがありません。それぞれの身体の動きは食い違い、思い通りに事は進まず、食べ物がこぼれたり、口の周りが汚れたり……。二人の動きの噛み合わなさが観客の笑いを誘う余興なので、上手く食べることができず、失敗すればするほど場は盛り上がります。

 この芸の面白さのベースには、意志と動作とのちぐはぐな関係があります。特に、その中心にあるのは「手」です(英語では二人羽織のことを、その名も「Helping Hands」と呼ぶそうです)。観客に顔を向けている人間の身体から生えているように見える手は、実際にはその人の手ではないのですから、決して思い通りには動きません(前の人は声でその手に指示を与えることができますが、前の人が見ている世界と、言葉から想像される世界とのあいだにはたいてい大きなズレがあって、ぴったり重なり合うことはないでしょう)。動作をおこなう手は、それを使う人の主体性や能動性とは切り離された、まさに「何をしでかすかわからない手」であり「制御不能な手」なのです。
 こうした手と主体との不可思議な関係に焦点を当てたのが、ダリアン・リーダーの『ハンズ――手の精神史』(松本卓也・牧瀬英幹訳、左右社)です。ロンドン在住の精神分析家・コラムニストである著者は、人間にとって「手」とはどのような器官であるのかという問いを、文学や映画などの様々な事例を紹介しつつ、多角的な視点から紐解いてゆきます。「分裂する手」「自律する手」「鎮める手」「暴れる手」など興味深い章題が並んでいるのですが、彼が本書を通して浮き彫りにするのは、シンプルでありながら深遠な一つのパラドックス――「手は私たちに仕える」。しかし、同時に「私たちの手はまさに不従順なものでもある」――なのです。
 たとえば、家族や友達の話を聞いているとき。大事な会議に出ているとき。その場に集中しなければいけないのに、手が勝手にスマホに伸びてメールチェックを始めてしまう。こうした状況を、誰しも一度ならず経験したことがあるのではないでしょうか。しかも、それは「自分自身が意図的に手を動かした」というよりも、「手が勝手に動いた」という説明の方が感覚的にはしっくりくるような無意識の振る舞いでもあります。著者は言います。「人間の能動性や所有者としてのあり方の象徴である手は、自分自身の一部分でありながら、自分の自由にならないものでもある」と。能動性と受動性のはざまで、「手」は時に従順に、時に所有を逃れながら私たちの日々の生活と文化を共にしています。その意味で、自分自身の「手」は最も身近な他人なのかもしれません。まるで、思い通りにならない二人羽織の「手」のように。

 私は日本の近現代文学を対象に、口述筆記という執筆形態について研究しているのですが、頭の片隅にはいつもこの二人羽織のイメージがあります。何かを書くとき、たいていの人は自分で握ったペンを動かしたり、パソコンのキーボードを叩いたりして文字を綴っていくでしょう。それに対して、「二人で書く」という口述筆記の方法は、二人羽織と同じくらい不自然な行為です。口述者が観客に顔を向けている前の人だとすれば、筆記者は前の人の指示に従って手を動かしながら、自分自身は決して表には姿を見せない、羽織の裏に隠れた存在だと言えます。実際、職業作家が口述筆記をおこなう場合、完成した作品に筆記者の名前が記されることはほとんどありません。あくまでそれは作家が書いた作品であり、筆記者は黒衣に徹することが求められるのです。
 二人羽織と同じように、口述筆記には意志と動作の主体が異なるがゆえの難しさがあります。中枢(考える脳)と末端(書く手)が分離された状態と言い換えてもよいかもしれません。文章を考えている人間と、実際にそれを文字に書き留める人間が違うのですから当然なのですが、一人で書くときには自動的に処理されている文字種の書き分けや句読点の位置などもその都度指示しなければなりません。頭に浮かんだ文章がそのまま紙の上に再現されるわけではないもどかしさは、上手く食べたいのに食べられない二人羽織のイメージにぴったりなのですが、一方で異なる部分もあります。
 二人羽織は、前の人の意図した動作を後ろの人の手が逸脱していくところにその面白さがありますが、口述筆記の場合、筆記者の手は口述者の指示通りに文字を書き、口述者の思考に沿って文章を作成していきます。つまり、筆記者の書く手は口述者の声の制御下にあるのです。指示を出す口述者と、それに従う筆記者。こうした非対称な役割は両者の間に権力関係を発生させます。ただし、常にそうした制御が上手く働くわけではなく、単なる主従の図式では語り切れないような相互関係が生まれるところも、この執筆手法について考える醍醐味ではあるのですが。

 さて、二人羽織が余興の芸として成立しているように、一人の身体でできる(と信じられている)ことを、二人の身体でやってみることによって生まれる不自然さは、ある種の「おかしみ」にも通じています。観客の前にいる人間は予期せぬ手の動きに慌てふためき、困惑し、うろたえます。そんな表情や仕草の一つ一つが見ている人の笑いを誘うのです。しかし一方で、それが他者の身体に対する差別的な視線に転じる可能性もあるでしょう。なぜなら二人羽織は、思い通りに動かない不自由な身体を笑うことで成立する芸だからです。そこには、私の身体はこんなに不自由ではない=コントロール可能である、という観客側の無意識の前提が潜んでいるのではないでしょうか。
 しかし、近年のケアをめぐる数多くの研究が指摘するように、人間は不自由さと無縁に生きてゆけるほど自律的な存在ではありません。程度の差はあるにせよ、あらゆる人が周囲との依存関係のなかで、ケアしたり、ケアされたりしながら人生の大部分を過ごしていきます。二人羽織はかなり特殊な状況ですが、一方で、そもそも介護や育児といったケアは、こうした二人羽織的な身体行為の積み重ねによって成り立っているのではないか、という気もします。ケアの現場では、しばしば「〇〇をしたい」と考える身体と、それを実行に移す身体は異なります。ケアする人は、ケアされる人のニーズを汲み取ってそれを代行しますが、先走ったり出遅れたり、やり過ぎてしまったりやり足りなかったり、ニーズを過不足なく満たすのがとても難しいことは容易に想像されるでしょう。異なる身体が協働する場には、やはりズレがつきものなのです。
 『交わらないリズム――出会いとすれ違いの現象学』(村上靖彦、青土社)は、医療や福祉の現場における生や関係性のありようを、リズムやメロディーという切り口から捉えた一冊です。「人間はリズムに貫かれている」。本書の冒頭で著者はそう明言しています。しかも、そのリズムは単数でも一定でもありません。個人の生を形作るリズムも、さまざまな人同士の出会いのなかで生まれるリズムも、どちらも複数のリズム(ポリリズム)によって構成されているのです。本書は、ケアの実践をけっして単一のリズムには収斂することのない、異なるリズムの絡み合い=「交わらないリズム」として論じ、調和と不調和のあいだを行きつ戻りつするようなリズムの変化に、ケアを介した関係が再編成される契機を見出していきます。ケアとは、異なるリズムを奏でる身体を互いにチューニングしつつ、そのズレにその都度応答していくような行為と言えるかもしれません。
 口述筆記も書く行為を代行するという意味で一種のケアであると私は考えているのですが、原稿用紙をあいだに相対する口述者と筆記者が経験しているのもまた、こうした「交わらないリズム」なのだろうと思います。「交わらないリズム」を前提にしつつ、両者は口述するスピードと筆記するスピードを擦り合わせ、息継ぎのタイミングや相槌の間合いなどをその時々の状況に合わせて調整することで、「二人で書く」ための身体を模索していくのです。

 二人羽織という一見取るに足らないような芸は、私のなかの身体論的、あるいはケア論的な関心と深く結びついています。二人羽織の噛み合わない身体が、実はケアの現場における身体の普遍性と結びついていることに気づくとき、そこで生まれる笑いは嘲笑ではなく、不自由で不自然な身体それ自体を愛おしむような笑い、ケアの本質に触れるような笑いになりうるのかもしれません。

関連書籍

田村 美由紀

口述筆記する文学―書くことの代行とジェンダー―

名古屋大学出版会

¥6,380

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