ぼくはこんな音楽を聴いて育った・東京編

第11話 遠藤ミチロウさんのこと

連載再開です! 2019年4月に亡くなった遠藤ミチロウさんにやっと言えた「お疲れ様」の話から。 

 連載2年近くもサボってしまいました。待っててくれたみなさん、本当に本当にごめんなさい。今更続きっていっても、こんなヨタ話だれも期待してないかもですが、興味のある方は、お付き合いいただければ幸い。とはいえ、しばらく間があいてしまったんで、本編に入る前に、脇道にそれます。いろいろ自分の中では書かねばならないこともたまってきてるんで、すいません、しばらくの間、今現在のことを書かせてください。書きながら、少しずつ過去に行ったり来たりしながら連載の話にもどって行きますね。ということでまずはミチロウさんのことを。

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 遠藤ミチロウさんが亡くなってしまった。亡くなったのは2019年4月25日だけれど、発表自体は令和が始まる5月1日。ぼくらにとって令和はミチロウさんの欠落で始まったことになる。ミチロウさんらしいタイミングだなと思った。

 ミチロウさんと出会ったのは2005年11月。紹介してくれたのはドラマーの中村達也で、京都のp-hourというフェスでのことだ。実はミチロウさんは高校の9つ先輩だってことは前から知っていた。でも世代も違うし、オレはスターリンのファンだったわけでもないので、音楽をちゃんと聴いたことも会ったこともなかったのだ。ミチロウさんにしても同じだったと思う。その日は打ち上げ会場だった吉田屋料理店で、二人とも下戸だったこともあって、端っこの方に座って、遠慮がちに不器用に自己紹介しあって、遅い時間まで静かに一緒に鍋をつついただけだった。

「大友さんはどうやって福島訛りを抜いたんですか」

この会話、いまでも忘れられない。初対面で「訛り」の話かって思ったのを今でもよく覚えている。両親は神戸と横浜の育ちで小3までは横浜だったんで、オレはそもそもネイティブな福島弁は話せない。そんなことを言ったら、ミチロウさんはちょっとだけガッカリしたように見えたんだけど、気のせいだったかな。オレは福島で育った10年間も、その後の何十年かでも、ずっと福島弁を避けてきた。関わりたくないと思っていたのだ。この「訛り」のこと、ミチロウさんにとっては本当に大きなことだったんだってのを知ることになるのはもっとずっと後のことで、そのときに、自分にとっても大きなことだったんだって思えたって話は、このあとに書く。

 ミチロウさんとちゃんと共演したのは2010年、ミチロウさんと達也くんのバンドTOUCH-MEにゲスト参加したときだった。今はなき六本木のスーパーデラックスでのことだ。このときは本当に楽しかった。でも、この時点でも、セッションを楽しむって程度の関係だった。

 ミチロウさんとの距離が劇的に縮まったのは震災のときだ。3月末にミチロウさんから突然電話が来て、それから先は怒濤のように何度も何度も一緒に福島に行き、東京でも深夜のファミレスや、当時吉祥寺駅前にあったわたしの仕事場兼フリースペースのGRID605で何度も何度も会合を重ね、「プロジェクトFUKUSHIMA!」を一緒に立ち上げることになり、そこから2014年までの3年間は、一番会って話をした人の一人だったと思う。

 ステージでは80年代スターリンのイメージもあって、強面というかヴァイオレンスなイメージを思い浮かべる人も多いとおもうけど、普段のミチロウさんは穏やかで訥々としていて、どちらかというとすぐにカッカときて、声を荒げがちだったり、逆にクダらないことを言って大笑いしたりするオレとは対照的。あ、オレもそんなカッカするイメージないじゃんって言われそうだけど、いやいや震災直後、オレはいろんなもんに怒っていて、というかココロに余裕がなくて、いろんな人たちとぶつかってしまっていて、ミチロウさんはむしろそんなオレをクールダウンさせる係だった。とはいえ、震災後、あれだけオレが動いた、動いてしまった原動力はミチロウさんだったと思っている。ミチロウさんの発する言葉に自分なりに反応していたんだと思う。あ、ちなみにオレのくだらない話にミチロウさんは、下を向いて少し笑うだけで、あとは完全スルーだったなあ。

「福島で8月15日にフリーフェスを野外でやりたいんです」

 震災直後にオレを呼び出して熱く語ったミチロウさんのこの言葉が、その後自分が福島で動くことになる最初の原動力になったと今でもオレは思っている。こっから先の話はオレもミチロウさんもいろんなところでしているんで、省くけど、オレが今こうしていろんな場所で盆踊りをやっているのも、2012年にミチロウさんが強く強く盆踊りをやりたいと言いださなければ、絶対に始まらなかったことだとも思っている。オレから見た福島でのミチロウさんはエンジンのようだった。普段は穏やかだけど、でも内実は爆走しまくるエンジン。怒り狂ったエンジンだ。オレの役目はその強烈なエンジンに車輪をつけて走る道を作ることのようにも感じていた。狂気のエンジンを暴走させること。ほんの少しだけ道筋をつけて。

 

 2013年の秋、あいちトリエンナーレの中で「プロジェクトFUKUSHIMA!」企画の大盆踊り大会が開かれた。名古屋のど真ん中の屋根付きのどでかい公園みたいな場所にいくつも櫓を立てて、大風呂敷を広げて盆踊りをやったわけだけど、このときはちょうど「あまちゃん」が最終回を迎えた時期で、このドラマの曲を演奏するわたしのビッグバンドも来ていた関係で会場は入りきれないくらい人が集まっていて(1万人近くはいたんじゃないだろうか)大混乱だった。オレは人生初の、てか多分最初で最後のブレイクを経験している最中だったわけだ。この事態をミチロウさんはどう思っていたかな。そんな中、ミチロウさんが櫓にのぼってソロで歌った「オデッセイ」が忘れられない。もともとは「オデッセイ・1985・SEX」って曲だったのが、この時はニューバージョンで「オデッセイ・2013・SEX・フクシマ」ってタイトルになっていて、あのミチロウさんが福島訛りの福島弁でセリフのような歌のような長い曲を全編歌ったのだ。これが本当に素晴らしかった。福島弁で「セーックス」(この絶妙な発音はカタカナでは書けないのだけど)と叫ぶミチロウさん、本当にかっこよかったなあ。80年代のスターリンを知らないオレにとってのミチロウさんは、この福島弁でパンクを歌うミチロウさんに他ならない。この時のミチロウさんは、パンクであろうとするのではなく、パンクそのものに見えたのだ。神々しかった。そして、ずっとどこかで関わるまいと思っていた福島弁が神々しく見えたのは、この時がはじめてだった。

 名古屋の友達がちょうとオレの隣にいて、ミチロウさんの歌ってる内容が半分も聞き取れないと言っているのを聴いて驚くと同時に、それがわかる自分がなんだか誇らしかった。オレにはミチロウさんの福島弁の歌が全編普通に聴き取れるし、意味もしっかりわかる。ネイティブな福島弁は話せないけど、でも聴き取りは全然OKってのが普通に嬉しかった。「プロジェクトFUKUSHIMA!」が最初に掲げた大きなテーマは誇りをどう取り戻すのかってことだった。それはイメージ戦略みたいなものではなく、文化を自分たちで作り出せたという実感を持つことでしか達成されないだろうとオレは考えていた。でも実際どうやっていいかなんて、全くわからなかった。でも、この時、オレははじめて「誇りをもつ」ってことの意味がわかったような気がしたのだ。

 ステージを降りてきたミチロウさんに福島弁の歌が本当に泣けるくらい素晴らしかったってことをオレは正直に伝えた。強力なエンジンだけだったミチロウさんが、しっかりと自分の車体とタイヤを手に入れた瞬間だ。誰よりも先にミチロウさんは道を示してくれたのだ。オレがミチロウさんの走る道をつくっていたなんてとんでもない思い上がりだった。この日が、ミチロウさんとオレの関係のピークだったと思う。

 2014年末、オレもミチロウさんもプロジェクトFUKUSHIMA!のリーダーを同時に降りている。オレは疲れ果ててしまったのだ。福島での活動に疲れたのではなく、組織を率いることといろいろあった面倒臭い人間関係に。ミチロウさんがなんでやめたのかはオレは知らない。知らないけど、ミチロウさんが福島弁で歌い出したことが、その全てだったようにも思う。ミチロウさんは一人で行く道を選んだのだ。僕らにものすごい痕跡を残して。

 それ以降も、ミチロウさんもオレも福島での活動を別個に続けた。二人とも、福島での活動を決してやめることもゆるめることもなかったし、むしろそれまで以上にやっていたけれど、でも一緒にやるチャンスはこれを切っ掛けにほぼなくなってしまった。直接喧嘩したわけでは全然ないのだけど、なんとなく溝ができてしまったようにも感じたし、互いに誤解があったようにも感じて少し寂しくもあった。けど、でも別々にやったほうがいいとも思っていた。そんなことも含め、いずれちゃんと話せる時がくるだろうくらいに思っていたのだ。

 でもそんなことも言ってられないなと感じたのは2018年。ミチロウさんがいくつかのライブをキャンセルしたとのニュースが入ってきた時だった。嫌な予感。ミチロウさんの体調が良くないことを知っていたからだ。そのこととは別にしても、ちょうど大河ドラマ「いだてん」のテーマ曲を作っている時期だったんで、スターリンの大ファンの宮藤官九郎さんの脚本だし、ミチロウさんにはぜひテーマ曲に参加してほしいと思っていたこともあって、メールではなく、直接電話をしてみることにした。でも、このとき話したのが最後になってしまった。

 ミチロウさんは初対面から最後まで、後輩のオレのことを常に「大友さん」と呼んでいた。「大友」とか、せめて「大友くん」とかでもよかったのにだ。かくいうオレもずっと「ミチロウさん」のままだった。それ以外の距離感を二人とも見つけられなかったんだと思う。出会う前は互いにそれぞれの音楽をさほど聴いてきたわけではないと思うし、震災がなければ、こんなに一緒に時間を過ごすこともなかったと思う。でも、福島に対する微妙な距離感みたいなものが、ミチロウさんとオレを結びつけていて、そのミチロウさんとオレとの距離感もまた微妙で……。そんなこともあって、ミチロウさんへの追悼文の依頼が来ても何も書けなかったし、自分の中ではずっと追悼が出来なかったのだ。

 心境の変化があったのは2020年11月15日、生前ミチロウさんが頻繁に出ていたホームグラウンドのAPIA40で行われた「遠藤ミチロウ★生誕70周年 オデッセイ・2020・SEX」に出たときだった。このときはじめてミチロウさんに素直に「お疲れ様」を言えたような気がしたのだ。単に挨拶の「お疲れ様」じゃなくてね。誘ってくれたのは中村達也。彼には本当に本当に感謝している。ありがとう! ミチロウさんがあの世でどう思っているかは知らないけど、でも、オレにとってはやっぱり親愛の情を込めて「ミチロウさん」なのだ。低姿勢なのに頑固なミチロウさんが大好きだったのだ。オレのくだらない話をスルーするミチロウさんが大好きだったのだ。そしてミチロウさんが福島弁で歌い出したことが、オレの何かを変えたとも思っている。

 ミチロウさん、本当にお疲れ様! オレはオレで、ミチロウさんがいなくなったあともずっと福島と微妙な距離感のまま付き合い続けています。

 2012年だったと思う。なにかのイベントに一緒に出てたときの楽屋だったかな。なぜか帽子の話になって、なんとなく髪の毛が薄くなってきたのを気にしていたオレが、

「帽子でもかぶろうかと思うんだけど、なかなか似合わなくて」

なんて半端な話をしたんだと思う。それに対してミチロウさんがきっぱりと言いきった言葉が忘れられない。

「帽子はね、かぶり続けることですよ、大友さん。自分の皮膚のようになるまで」

 オレが帽子をかぶりだしたのはこれが切っ掛け。なんでだか負けるもんかと思って、徹底してかぶろうと思ったのだ。ちょうど「あまちゃん」でメディアの露出が多くなった時期にオレのイメージが帽子になったのは、こんなことがあったからだ。

 あれから8年間、オレは帽子をかぶり続けた。かぶり続けたというより、一度かぶることが習慣化してしまうと、帽子を脱げなくなると言ったほうがいいかもしれない。でも、最近は帽子をかぶらずに人前に出るのもいいかなと思うようになってきた。どういう心境の変化なのか、自分でもまだわからないでいる。