脇田玲

第2回:マインドセットを変える組織

いま「ラボ」や「リサーチ」を冠した組織が、アフターインターネット時代のビジョンを作りあげつつある。彼らはスピード感と軽やかさを武器に、新しい技術の可能性を社会に問い続けているのだ。ラボやリサーチをイノベーションの駆動力とする「ラボドリブン社会」とはどのようなものか。ビジネスからアートまで、最先端の現場からラボの新しい姿を解き明かす。

ボブ・ディランの受賞

ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞が世間の耳目を集めている。「偉大なるアメリカ音楽の伝統の中で新たな詩的表現を生み出した功績による」というのが受賞理由だ。筆者が高校生の頃、友人から「この音楽を聴け!」という薦め(半ば強制)により、彼からボブ・ディランのCDを1週間借りたことがある。当時、オジー・オズボーンを崇拝するヘヴィーメタル青年だった筆者は、恥ずかしながらその音楽の素晴らしさを理解できなかった。42歳を迎えようとしている今、ディランの曲の禅的な素晴らしさが身にしみる。彼の作り出す音楽とその生き様の間に齟齬がないところも尊敬している。

ボブ・ディランへの賞賛と再評価の中、同じくらい素晴らしいと筆者が感じるのはノーベル文学賞の選考を担うスウェーデン・アカデミーの視座だ。この組織は北欧を中心とした作家、詩人、哲学者、言語学者などから構成されている(ちなみに日本にも日本学士院という国立アカデミーが存在しており、諸分野を代表するボスキャラ150人から構成されている)。スウェーデン・アカデミーの会員は18名と小規模であるが、メンバーは言葉を扱う諸分野の重鎮であり、ノーベル賞受賞者も多い。なので、今回のノーベル文学賞は、文学はかくあるべき、もしくは、文学はこうあっても良い、という学術的な視点からのメッセージだと考えて間違いないだろう。

細分化を逆流する

話は変わるが、科学というものは専門化と細分化を推し進めて高度化してきた。ある分野の根が分かれて新しい分野が生まれ、その分野の根がまた別れてさらに新たな分野を作ってきた。英語の”Science”という概念が日本に入る際、思想家の西周(にしあまね)が「科学」という言葉を与えたことはよく知られている。「科」とは物事を細かく分けるという意味であり、「科学」という文字はそれ自身のうちに細分化を避けられない本性を抱えている。

話を戻すと、ノーベル文学賞は上記のような細分化の逆流を企みたのではなかろうか。枝分かれして細かくなった端点から、分岐をさかのぼり、またさかのぼり、音楽と文学が別れる以前、かつて吟遊詩人がメロディーに詩を乗せていた時代まで分岐をさかのぼり、音楽と文学が未分化な始原的な状態から、硬直化した文学を力強く乗り越える新しい方向性を示そうとしているのではなかろうか。

見方を変えれば、文学という概念の再構築を仕掛けているとも言える。すでにあるものを整理し直し、枠組みを作り直す作業。リ・フレーミング(Re-Framing)と言ってもよい。実は科学は過去からずっと同じようなことを繰り返してきたように見える。全てをゼロから作り上げる訳ではなく、既存の組み合わせによる編集行為、枠組みの再構築、それらを通した再解釈という作業が新しい世界を作り出してきたのだ。文学は芸術的な側面もあるが、もう一方では人文科学の一つであり、極めて科学の一分野である。その意味で、今回のボブ・ディランの受賞は文学の科学的進歩と考えてよいのではなかろうか。

マインドセットを変える

枠組みを変える作業は、既存の価値感に修正を加える行為なので、敵を作りやすい。今回の選考も世間が大騒ぎすることは目に見えていた訳で、なぜスウェーデン・アカデミーはそこまでリスキーな選択をしたのだろうか? 思うに、彼らは人々の文学に対する「マインドセット」を変えたかったのだと思う。「今回の選考結果は妥当なのか」「文学とは何か」「音楽とは何か」という議論が世界中で巻き起こっている時点で、彼らの企みは成功しつつあるようだ。世界中の人々と文学への本質的な問題意識をシェアすることで人々のマインドセットは少しずつ変わっていくだろう。実験マインドに溢れたスウェーデン・アカデミーの決定に拍手を送りたい。

ラボドリブン社会を牽引するのは新しい組織だけではない。組織の年齢に関係なく、真の実験マインドをもった組織が世界を変えていくのだ。

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