昨年から今年にかけて、日本の出版界は怪獣小説がちょっとしたブームである。
昨年は夢枕獏『大江戸恐龍伝』(小学館)が完結、宮部みゆき『荒神』(朝日新聞出版)が出版と、江戸時代を舞台にした怪獣小説が競い合った。今年は三月に『怪獣文藝の逆襲』(角川書店)、四月に『日本怪獣侵略伝~ご当地怪獣異聞集~』(洋泉社)と、怪獣小説のアンソロジーが続けて出ている(前者には僕も書かせていただいた)。円谷プロダクションと早川書房のタイアップ企画《TSUBURAYA×HAYAKAWA UNIVERSE》も進行中。海外作品では、ジェレミー・ロビンソン『神話の遺伝子』(オークラ出版)と『怪物島─ヘル・アイランド』(早川書房)が訳されている。
怪獣の魅力とは何か? 一言で語るのは難しい。先の作品群にしても、自然災害としての怪獣、神話的存在としての怪獣、世界の破壊者としての怪獣、守護者としての怪獣、憧れとしての怪獣などなど、様々なアプローチがある。どの見方が正しいということはない。いわば人が「怪獣」という単語から抱くイメージの数だけ怪獣小説が書けるわけで、これからもさらにバリエーションは広がると予想される。
そうした作品群に、新たな怪獣小説が加わった。小路幸也『怪獣の夏 はるかな星へ』である。
時は一九七〇年。主人公はある地方都市に暮らす少年少女たち。ある時、彼らはドブ川の下水口の天井に描かれたリアルな怪獣の絵を発見する。誰がこんなものを描いたのか。調べていくうち、その絵は少しずつ動いていることが判明する。やがて正体不明の「機械人間」が夜の街に現われ、騒ぎを起こす……。
読んでいくうち、ここは我々の世界に似ているが、『ウルトラマン』という番組が存在しないことが分かってくる(「ゴジラ」や「ガメラ」という単語は出てくるので、怪獣映画はあるらしい)。そこで展開するのは、『ウルトラ』シリーズの一エピソードのような物語。登場人物の名前をはじめ、番組中の名台詞や名場面へのオマージュが随所に出てくる。特に、あるシーンに登場する「ちゃぶ台」には嬉しくなってしまった。
だから発想としては拙作『MM9』(東京創元社)に近いのだが、アプローチのしかたは異なる。特に秀逸なのは、一九七〇年という時代設定だ。これには正直、「やられた」と思った。第二次怪獣ブームの直前、いわば日本人と怪獣の親和性が最も高かった時代である。さらに子供たちを主人公にして、街に起きる怪事件を彼らが捜査することで、『少年探偵団』のような懐かしい味わいのあるジュヴナイルになっている。読んでいる間のわくわく感はたまらなかった。
もっとも、単なるノスタルジーではない。あの時代の負の側面、特に公害問題が物語に影を落としている。まだ工場が煤煙や廃液を垂れ流し、公害病が多発していた。この翌年には、公害怪獣が多数登場する『宇宙猿人ゴリ』(『スペクトルマン』)が放映開始され、やはり公害怪獣へドラの登場する『ゴジラ対へドラ』が封切られた。「このままでは人類は今世紀中に滅びるのではないか」とも言われていた。
だが、予想に反して、人類は滅びなかった。今でも環境破壊は重大な問題だが、少なくとも二〇世紀末に破滅は来なかった。海も空もあの時代よりきれいになった。
もちろん、自然にそうなったわけではない。多くの人が未来のために努力した結果だ。だからこの小説の中で、人類への絶望を語る悪役に対して、子供たちに未来への希望が託されるのは、絵空事ではない。一九七〇年以降の現実の歴史がオーバーラップしているのだ。
今のような暗い時代、こんな風に未来への希望を謳い上げる物語も、もっとあっていいのではないだろうか。