現代哲学はいまどういう地平を進んでいるのだろうか。それを一言でいえば「認識の謎」である。
近代哲学の最大の問題は「認識問題」、すなわち主観-客観の一致は証明できるかという点であり、ほとんどすべての哲学者がこの問題にとりくんだ。そこには大きな理由がある。もし主観-客観の一致がなければ、およそ客観的な認識というものは存在しえないというだけではない。それは、どんな考えにも普遍性はなく、善悪の基準などは結局のところ存在しないということ、つまり、一切は力の論理に従属するということに帰結するからである。
さて、この問題は、近代哲学では形而上学的独断論と懐疑論(典型的には、スピノザ対ヒューム)の対立としてよく知られているが、結局のところ十分には解明されなかった。現代哲学において、この「認識の謎」は、言語論的転回という旗印のもとに、論理学、言語哲学における、語義やルールの多義性、決定不可能性の議論へとそのまま持ち越された。この問題は、論理学、分析哲学、ポストモダン思想、科学哲学などの分野でいまも膨大な議論を生み出し続けているが、興味深いのは、独断論(形而上学的、あるいは実証主義的)対論理相対主義という対立の構図は、近代哲学以来、あるいはギリシャ哲学に遡って──その中心の論点においても──まったく変わっていないということである。ただ、ギリシャではプラトン、アリストテレスの普遍認識論者が優勢だったが、現代では相対主義者が圧倒的な優位を保っている。ジャック・デリダ、ヴィトゲンシュタイン、クワイン、ポパーなどが反実証主義-反客観認識主義を代表する論者たちだ。
この現代哲学における「認識の謎」の膨大な議論のうちに、プラトンを、たとえば言語哲学の名篇『クラテュロス』をおいてみる。ここでも、すでに、言語における語の多義性や客観認識の可能性といった中心問題が微に入り細を穿つ仕方で議論されているが、とくに語源学を追いつめた果ての結論が見事である。ヘラクレイトスやパルメニデスをはじめとする哲学者たちもよく思考を追いつめたが、しかし一つの重要なことに気づかなかった。人はしばしば、言語の本質の問題を、論理学的、系譜学的に追求することに熱中するが、そのうちには哲学の本質的問題は存在しない。何がもっとも深く考えつめられるべき問題なのか。思考がそれを見逃すとき、つねに言語や論理についての大騒ぎの議論が始まる。
要するに、かつてブッダが毒矢の喩えで「形而上学の禁止」を論じたように、膨大な哲学的議論が、最も本質的な問いからはまったく無駄なものだという可能性がつねにある。私の考えをいえば、現代哲学の認識論的、言語論的な膨大な議論にプラトン哲学を対置すれば、それは、かつてのスコラ哲学の膨大な議論と似た、言語と論理についての無意味な「形而上学」のように見えてくる。
プラトンの発想の転換はきわめて鮮やかである。人間の人間性、人間の本質の普遍性はどこにあるか。またその認識の可能性はどこにあるのか。それはまず「美の普遍性」ということに、そしてそれを支える「善の普遍性」ということがらのうちにある。言語を記号あるいは論理とみなすかぎり、けっしてこの問題について本質的な設定を行なうことはできない。これがプラトンの考えだった。われわれはなぜ、美(あるいは善)に引きつけられ憧れるのか、美や善への欲望の本質とは何であるのか。この問いに接近するためには、価値、エロス、欲望、といった問いについての新しい哲学を必要とする。これがプラトンの「善のイデア」説の要諦なのである。
プラトンを読むほど、現代哲学におけるいわば「真のイデア」についての膨大な議論が、むしろ古色蒼然たるものに見えてくる。