ちくま新書

ほとんどの日本人は字にコンプレックスがある

へたでもいいんです。その人らしい「いい字」は誰にでも書けます。書道家である著者は、どの字にも個性があって美しいと言う。 しかし、そうは言っても今より「いい字」にするには、どうしたらいいのでしょうか? この本では、著者が考える極意をすべて出して いただきました。字を書くとき、もっとも、大切なこととは・・・・・・?

 最初に、身も蓋もないことを言ってしまいます。
 この世に、字が下手な人など一人もいません。どの人の字もその人らしくて、とても「いい字」です。
 みみずが這ったような字も、人から「下手くそ」と言われる字も、「なんて書いてあるかわからない」と言われてしまう字も、書道家である僕から見ると、それぞれ個性があって美しい。みなさん、もっと自信を持っていいのです!
 でも、残念ながらほとんどの人は字にコンプレックスがあります。先日、僕のところにある新聞社の記者の方がインタビューに来ました。僕は初めて来られた方には、余興で「筆跡鑑定をしますよ」と言って字を書いてもらうことがあるのですが、その方は緊張で手がぶるぶる震えてうまく書けないのです。
 僕がじいっと見ていたせいもあると思いますが、それにしても極端なくらいの緊張ぶりです。聞いてみると、小さいころ親に「字が汚い」と言われて、書いたものを破り捨てられた悲しい経験があるそうです。
 それがトラウマになって、「自分は字が下手だ!」というコンプレックスが焼きついてしまったのだと言っていました。このように、字を否定されることは人格を否定されるくらい大変なことになってしまうこともあるようです。
 この本を読まれる方は、きっと「いい字」を書きたいと思っておられるに違いありません。ということは、逆に言うと「自分の字は下手だ」というコンプレックスを抱えていらっしゃるのではないでしょうか。
 ですから、僕は最初にどうしても言っておきたいのです。字にいい、悪いはありません。ちょうど人間の顔と同じだと思ってください。誰もがみな映画俳優のように整った顔をしていなければダメ、というわけではありませんよね。
 ひとりひとりの顔には愛嬌があって、味があって、個性的で、どの顔がダメで、どの顔がいい、ということはありません。いろいろな顔があるから面白いのです。
 字だって同じです。雑に乱暴に書かないで、丁寧に書きさえすれば、どんな字もみな味わいがあって素敵です。僕は、いわゆる下手と言われている字が大好きです。町を歩けば、面白い字はないかと、珍獣ハンターのように探しています。
  編集者から来る手紙やメモも、僕の大好物です。編集者は文字に関わる仕事をしているわりには、いわゆるきれいな字を書く人は少なくて、ユニークで変てこな字の人ばかりです。その〝変ぶり.が面白くて、編集者からの手紙が楽しみでしかたありません。
  ちなみに、文豪の字も個性的なものばかりです。太宰治の字はものすごい癖字で、判読するのに苦労するものがあります。芥川龍之介の字は、細くて弱々しい感じです。夏目漱石は、ミミズがのたくったような悪字で有名です。
 だから、「私の字は下手くそだ」「悪筆だ」「癖がひどい」「恥ずかしい」などと自分を卑下しなくていいのです。そんなふうに思っていると、字からも〝下手なオーラ"が出てしまって、もっと下手に見えてしまいます。
「私の顔は、ブサイクだ」「自分はイケてなくて、かっこ悪い」などと卑下して人前に出ると、本当にそう見えてしまうのと同じです。
 この本は、自分の字に自信がない方に、自信を持ってもらうために書きました。いい字にするにはどうしたらいいか、その極意が書かれています。
 でもこの本を通して、本当に僕が伝えたかったのは、字を書くことの面白さ、奥の深さ、楽しさです。字にはそれだけのパワーがあります。ときには人生さえも変えてくれるすごい力があるのです。この本を通して、みなさんに字の面白さやパワーに気づいていただけたら幸いです。

 

 

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