この連載もなんと7回目だ。あいかわらず僕は働きたくないし、何度もそう書いているのに、なぜか連載は終わらない。そろそろ終わってもいいはずなのに終わらないのだ。おかしいのである。終わらないものだから、またしても僕はゴロゴロしていたいだけなんだと、声を大にするしかないのである。実際には声じゃなくて文字なんだけどね。しかも同じ大きさなんだけどね。
プロとアマはどう違う?
ときどき「お金をもらえばプロ、お金をもらわなければアマチュア」と言う人がいるけれども、僕はその言葉をちょっぴり疑っている。
プロフェッショナルとアマチュアとではいったい何が違うのだろうか。僕の考えでは、仕事とは世界をほんの少し変えたり、世界に何かを付け加えることで、お金はその仕事に対して誰かが勝手に払ってくれるものだから、お金が払われるかどうかでプロとアマが区別されるわけじゃない。
ピアニストの仕事はピアノを弾くことだし、配管工の仕事はパイプをつなぐことだし、豆腐屋の仕事は豆腐を作って売ることだ。
もうみんなも知っているように、僕は文章を書く仕事をしている。毎日いろんなところで文章を書いているわけだけれども、そうした僕の書く文章にお金を払ってくれる人もいれば、もちろん何も払ってくれない人だっている。たくさんお金が払われる文章もあれば、誰からもお金が払われない文章もある。
お金で仕事は変わらない
繰り返しになるけれども、ここで大切なのは、僕の書く文章はお金とはまったく関係が無いってことだ。短い小説を書いて欲しいと言われたときも、広告のキャッチコピーを考えて欲しいと頼まれたときも、今この原稿を書いているときも、僕はいつも同じように考え、同じように言葉を選び、同じように自分の文章を整えていく。
もちろん求められているものが違うから、キャッチコピーの代わりに小説を出すことはないし、この原稿の代わりに一行のコピーを書くことはない。それでも、僕はいつも同じように仕事をしている。
お金をたくさんもらえそうだからいい文章にしよう、もらえるお金が少なそうだから下手な文章にしようなんてことはない。ギャラが半分になったからといって、キャッチコピーの長さを半分にすることもない。僕の文章はお金では変わらない。いつだって同じ態度で、これまでなかった何かをほんの少し世界に付け加えようとするだけだ。
そりゃあ、たくさん書いていれば、結果的に出来映えのいいときもあれば、今回はあまり上手く書けなかったかもしれないぞと反省することはある。それはみんなだって同じだろう。それでも僕の仕事そのものは変わらない。
できることをできる限りやるのがプロ
きっとほかの仕事をしている人たちも同じだろうと僕は思っている。
ピアニストはどんなときにでも曲を美しく奏でようとするだろう。配管工は常にパイプをきっちりつなごうとするだろう。いつだって豆腐屋はできるだけおいしい豆腐をつくろうとするだろう。もらえるお金が少ないからといってピアニストは雑な演奏したり、曲を途中で止めたりすることはない。たくさんもらえたら嬉しいし、もっと頑張ろうと思うかもしれないけれども、少なくともお金によって演奏が変わることはない。
配管工や豆腐屋だって同じだ。作業代がきちんと払われなければ質のいいパイプは用意できないだろうし、いい材料を買うことができなければ、誰でもほっぺたが落ちるようなおいしい豆腐はつくれないかもしれない。それでも、わざわざ悪いものにしようと手を抜くことはない筈だ。
自分にできることをできる限りやってみせる。少なくともそれがプロフェッショナルと呼ばれる人たちなのだと僕は考えている。
お金をもらうからプロなのではなく、自分のやるべき仕事をきちんとやるのがプロなのだ。意志を持って世界を変えようとしているか、それとも単なる動作なのか。それがプロとアマの違いなんじゃないだろうか。その結果として、たくさんの人がプロにはお金を払ってくれるんじゃないだろうか。
ときどき僕はそんなふうに思うのだ。