■小説を書く意味を、小説と一致させたい
藤田 劇作家が小説を書く問題に戻ると、岡田利規さんも戯曲と小説を書かれてますけど、僕は岡田さんの作品はいいと思っているんです。それはなぜかというと、彼はもともとモノローグの作家だと思うからなんですね。劇作家が小説を書くときに、一番駄目だと思うのは、ただダイアローグを小説のかたちにしたというパターンなんです。舞台で彼らを彼らたらしめていた魅力が、小説になったときに微塵もなくなっているのを見ると、舞台でもこのひとたちはちゃんとわかっていたのかなと疑問に思えてきてしまう。僕も下手したらそうなってしまうかもという恐れで筆が止まっているのかもしれない(笑)。
又吉 小説という形式はむちゃくちゃ自由だと思うんですけど、縛りはありますよね。流行りもあるし、原則として言葉はみんな同じのを使わなければいけないとか、いろいろ踏まえておくことはある。
藤田 戯曲と小説は形式からして違うんだ、という意識が希薄な気がするんです。漫才とコントだって違うじゃないですか。「火花」を読んだときに納得したのはそういうところで、「コント」は言ってみれば演劇に近いけど、「漫才」は演劇かと言われると微妙ですよね。流れで劇中劇っぽくなっても、あくまでコンビの二人としてやっている。それこそ「又吉です」って名乗ってやるわけだし、すごいメタな表現でもある。
又吉 漫才は特殊ですね。なにかを演じるのではなくて、自分自身として発言しますからね。そこも昔、引っかかったんです。漫才は自分が言ってることになるわけだから、変なこといっぱい言ってもちゃんと自分が信じられることじゃないといけない。コントだったらネタ合わせするのはわかるけど、漫才は自分が言うことを練習してきたって意味わからんなって(笑)。そこは小説の一人称と似てて、みんなどう整理してるんやろうって思うんです。
僕はやり始めのころ、女性をやるときもトーンを変えずにずっと同じ調子で話すようにしてたんです。ウケへんからすぐやめたんですけど(笑)。というか、それをやっていく中で、ここは声を張ったほうがいいとか理解していった感じです。でも、基本的には漫才をやるときは、その瞬間、その言葉は自分と一致していることが多いんですね。相方がツッコんできたときに、バッと引いて、ボケるときはお客さんと相方のところにまたグッと入って喋っているという意識が強いです。
藤田 ああ、わかる気がします。また劇作家への愚痴になっちゃうけど、M-1とかキング・オブ・コントを見て、劇作家が批評めいたことをツイッターとかで言うのが好きじゃないんです(笑)。「このコンビはシナリオがいい」「あのコンビはキャラだけでしょう」とか言うんだけど、漫才はその人たち自身をやるわけだから、ハゲてることを武器にしてもいいんですよ。それに対して「シナリオがよくない」と言うのは、わかってないなと思っちゃいますね。
又吉 漫才は奥が深いですよ。年齢で面白いと思うのも変わってくるし、ぜんぜんワケわかんないというのが急にツボにはまったりするし……。僕の技術でできるようになるかわからないですけど、いつか声張る・声落とす・なんか「うーっ」みたいなうなり・そこに相方ツッコむ・しばらく「うぉっうぉっ」とうなる・相方どっか見てる・そこから急に入ってくる、みたいなリズムと声の抑揚と間だけで面白くできるんちゃうかと思うんです。
藤田 漫才の原型みたいな。
又吉 あと、テンションと表情ですね。そこに言葉を置いていくと、めっちゃ面白いものができる気がします。ちょっと音楽に近いかもしれないですね。
藤田 音楽もリズムと強弱、間をいかに配置するかですよね。大学生のころTVで見てたやつで、綾部さんがいきなり乳首を触られるってコントがあったんです。
又吉 ありましたね。
藤田 あれは誰がやっても面白いものでもなくて、綾部さんだから面白いって部分がありますよね。でもあれはコントなので、綾部さんではなく脚本での役のひとが乳首を触られてるってことですね。しかし、明らかにあの番組内で成立している綾部さんのキャラを前提として、あの笑いはあるわけで、コントにも漫才のような「そのひと性」に支えられているところはある。
演劇にしても、たとえば『cocoon』で青柳いづみがサンを演じるわけだけど、観てるうちに原作のサンという役よりも、青柳いづみを観るようになると思うんです。その瞬間だけを僕は舞台に求めていると言っても過言ではなくて。役名にせよ役者自身の名前にせよ、ひとっていろいろと着込んでいると思うんですけど、それを全部とっぱらったそのひと自身だけがあるという状態を目指したいんですね。オリジナルの作品でも、実名だけど役名でもあるというのをよくやるのはそういうことをしたいからなんです。
又吉 よくわかります。小説も同じだと思うし、俳句も作品のあとの「芭蕉」「一茶」というの込みで作品ですよね。
藤田 そこからすると僕にとっての小説は、本来、役者が演じてくれるところも僕が演じなければならない過剰に演じることを強いられる場なんです。
又吉 ちょっと話つながるかわからないんですけど、中学のときに国語の教科書で芥川龍之介の「トロッコ」を読んで、めっちゃおもろいやんと思ったんです。国語の授業なので、作者が大事でこれを書いた芥川龍之介は……ってなるんですけど、僕は誰が書いたかなんてどうでもええやん、こんなおもろい話、一生にひとつ書けるか書けないかやろ、と思ったんですね。でも、他の教科書で「羅生門」を読んで、あれ、これもおもろい、芥川がおもろいひとやからおもろい話が書けるんやとそこで気づいたんです。そのへんから作品と切り離せないものとして「作家」という存在が視界に入ってきましたね。
藤田 僕も又吉さんも死んで、50年経って著作権も切れた未来に、たぶん又吉さんが書いたかどうかも気にされなくなるわけじゃないですか。でも文字は残るわけで。そのときに、芥川龍之介なんて知らねえよっていうのはふつうに正しい反応ですよね。ただ、そこでも「火花」と「劇場」って同じひとが書いたの? と思うひとはいるはずで、そういうひとのために小説を書きたいと、いま思いました。そういう残し方は演劇ではできませんからね。
又吉 僕もやっぱり書けなくて、小説ってなんなんやろってずっと考えてたんです。もちろん、言葉を埋めたら、小説じゃなくてもなにかにはなるんだろうけど、書く動機が自分になかったんですね。めっちゃめんどくさいやつだと思いますけど、『火花』も『劇場』も編集のひとに「僕、なんで書くんでしたっけ?」と何回も訊いたんです。
藤田 あ、それ、僕も使おう(笑)。
又吉 そんなん書きたいことがあるから書くんでしょって言われるかもしれないですけど、表現したいものなんて子どものころからずっとあるわけで、それは当たり前以前の話で、むしろ書きたいものがあるだけで書けちゃうひとのほうを疑っちゃうんですけど(笑)、表現の出し方がいっぱいある中で、どうして小説なのかがわからないという話なんです。そこでいろいろ言葉を尽くして説得されて、やる気が出てきて家に帰って書くんですけど、しばらく経つと、「俺、なんで書いてるんだろう」ってなって、それを三回くらい繰り返しました(笑)。最終的には、まっさらの小説200枚、なにを書いても自由というので、「小説を200枚書け。自由に」という大喜利だと思うようにしました。そうすると、けっこうテンション上がるんです。そんなこんなで僕は小説を書くことへの違和感をどこかのタイミングで超えられたんです。また新しいのを書こうとしたら、悩んじゃうかもしれませんけど。
藤田 自由、ですよね。あまりにも縛りがないので、書かない自由もあるんじゃないかって思うくらい(笑)。小説を書かなくても、演劇をやってれば生活もできるわけだし。逆に言うと、いま小説を書く意味を、小説と一致させたいんです。これは小説じゃないとできないということが、僕にもあるはずなんだけど、そこにまだ辿り着けていない。でも、今日、又吉さんと話していて、いろんな疑問の解像度がぐっと上がった気がします。単に増えてるのかもしれないけど(笑)。
((3)に続く)
《告知》
又吉直樹原作舞台『火花』チケット発売中
出演:観月ありさ 石田明(NON STYLE) 植田圭輔 又吉直樹 他
東京公演:2018年3月30日~4月15日 紀伊國屋ホール
大阪公演:2018年5月9日~5月12日 松下IMPホール
チャレンジふくしま パフォーミングアーツプロジェクト
「タイムライン」
出演:ふくしまの中学生・高校生
作・演出:藤田貴大
音楽:大友良英
振付:酒井幸菜
写真:石川直樹
衣装:suzuki takayuki
福島公演:2018年3月24日(土)17:00開演/3月25日(日)13:00開演 会場:白河文化交流館コミネス 大ホール
東京公演:2018年3月29日(木)18:30開演/3月30日(金)14:00開演、18:30開演/3月31日(土)14:00開演 会場:東京芸術劇場 シアターイースト
『めにみえない みみにしたい』
作:藤田貴大
出演:伊野香織、川崎ゆり子、成田亜佑美、長谷川洋子
さいたま公演:2018年4月29日(日・祝)~5月6日(日) 会場:彩の国さいたま芸術劇場 小ホール
吉川公演:2018年5月12日(土)・13(日) 会場:吉川市民交流センターおあしす多目的ホール
気鋭の劇作家・藤田貴大さんの虚構的自伝小説「T/S」のPR誌『ちくま』での連載開始を記念して、お互いにリスペクトしあうお笑い芸人・作家の又吉直樹(ピース又吉)さんとお話しいただきました。第2回は、藤田さんが「劇場」をどう読んだか、劇作家が小説を書くことの意味と悩みを語ります。お楽しみください。