単行本

あとがきにかえて
藤田貴大『T/S』

自身の半生と演劇論を虚実入り交じらせて織りなした自伝的フィクション『T/S』を上梓された藤田貴大さんに、あとがきがわりのカーテンコールをいただきました。ご覧下さい。(PR誌「ちくま」2024年5月号より転載)

 なかなか出せずにいたものがやっと出るかもしれないということで、ここ数か月を過ごしていた。ぼくは演劇作家なので、ふだんは舞台や、または身体を空間として、そこへ言葉を書き下ろしている。なので、やはり小説という紙やインクが伴った空間にて、ぼくなんかがなにができるというのだろう。まだまだわからないのだけれど、『T/S』という場では、ぼくが普段演劇を製作している手つきを、あるいは思考を、そのまま小説という空間に吹き込めるかどうかというふうに苦しんだのだと思う。なかなか出せずにいた、というのにはいろいろ理由があるが、まず演劇と小説が相反しているように思えてしまうのは、その空間で扱われる“現在という時間”についてである。演劇というのは、基本的には、どうしたって現在という時間が観客によって客席に持ち込まれる。観客だけじゃない。キャストもスタッフも、劇場に集まるすべてのひとが、現在という時間を身に纏っている。しかし、小説はどうだろう。読者は、現在という時間にそれを読むだろう。しかし、作者はいつそれを書いたのだろう。作者は、現在という時間を知らない。作者が書いた時間と、読者が読む時間のあいだにラグがある。今朝のニュースを知らない、いつかの作者が書いた文章を、今朝のニュースを知っている読者が、過去に書かれた文章として読むという奇妙さが小説にはある。それでいうと演劇も、じゃあ台本は過去に書かれたものだろう、と思う人もいるかもしれないが、ぼくはそう思わない。演劇という場では、今朝のニュースを見たぼくなら、それを受けていろいろおもった、というようなことを、劇場にいるキャストやスタッフに言葉を尽くして話すことができる。なんなら、台本を開演ギリギリにすこし変更することだってできる。演劇というのは、そういうふうにして現在という時間と対峙する、観客とのあいだになるべくラグがないようにする、ということができるものだとぼくは思っている。小説と演劇は、そこが決定的に違う気がする。では、じゃあ、こうやって小説や演劇の違いについて考えているのに、どうして、やっと出るかもしれないと思えたか。それは、とてもシンプルなことかもしれない。ここに描かれていることを、ひとまずここで、過去にする。つまり、このさきへと歩いていこうと、やっと思えたからかもしれない。『T/S』の連載を終えたのはコロナ禍の初期で、あれから演劇はますます大変だったし、演劇だけじゃない。ぼくの周りの、それにだいぶ近い人たちに、もう二度と会えなくなった、という経験をいくつもした。会える人には会いたいかどうかは悩まない。会いたい人には会いに行けばいい。でも、会えない人には、もう二度と会えないわけだから、会いたい人は会えない人なんだと、改めて思った。会えない人に会いたい。会えない人に、手紙を書きたい。届くことのない手紙を書く意味もあると思っている。だから『T/S』は、もうこれを読めない人に読んでほしいと思って、本にするにあたって作業した。『T/S』という手紙は、もうその宛先には届かないけれど、ひとまずここまでがぼくであり、ぼくの演劇だよ。という気持ちで、もう会えない人たちへ、これを読めない人たちに宛てて、書いた。文字にしなくてはいけない、と思えたからだった。演劇において、身体から発せられる言葉というのは無形で、舞台上にただ目に見えないかたちで漂っている。しかし小説における言葉というのは、文字というかたちで、紙に刻まれている。自分の身体が消えてなくなったいつかの未来に、もしかしたら届くかもしれない。知らない誰かが、ぼくが書いたこれを読むかもしれない。自分自身の生命より、先に続く生命かもしれない。こういう想像は、演劇ではできないことだと思った。現在は二〇二四年、春。しかし、今日も今日とて、稽古場にて、とても苦しみながら演劇作品をつくっている。

関連書籍

藤田 貴大

T/S (単行本 --)

筑摩書房

¥2,200

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入