日本の文化は論争を好まず、口達者より口下手に好感をもつ伝統だとされてきた。少なくとも本書が書かれた1990年代より以前には、そのような雰囲気が残っていたように思う。「あー、うー」と口ごもる政治家が、根回しと人心掌握で評価されていた時代がかつてあった。大学でも、あまり分かりやすいとは言えない教授の講義を聞き取ってはノートにとるという、一方向の授業がほとんどであった。それらが一概に否定されるべきとは思わないが、言論での対決を得意とし、すべてを討論や演説で決着させる古代ギリシア以来の西洋文化とは好対照をなす状況であった。だが、すくなくとも弁舌の爽やかさや議論の明敏さ、それに対する積極的評価という点で、昨今で状況は大きく変化している。
教育現場でディベートやプレゼンテーションのやり方が教えられるようになり、私の教える大学の授業でも、学生たちの発言や発表の能力は確かに上がっている。また、日々進歩するコミュニケーションツールによる情報発信は、沈黙して考えるという余裕を一切許さず、人々はたえず言葉をやりとりしていないと不安なように見える。メディアで展開される時事討論や即席コメントも、時折行き過ぎに聞こえることもあるが、近年ではより洗練されている。何より、日本でも平成21年から裁判員制度が始まり、一般市民も司法の場に参加するようになった。古代ギリシアで弁論術が用いられた主な場面は法廷であり、そこで磨かれたテクニックがさまざまなトポスにまとめられてきた。日本の法廷ではギリシア人ばりのレトリックが駆使されることはないようだが、それでもプロ同士のきまった手続きによる審理とは異なる言論空間が生まれてきている。この20年ほどの変化はかなり大きい。
また、かつての日本では、専門家を養成することで、細分化し先鋭化した知で産業や社会を統御しようとしていたが、それではうまく対処できないさまざまな状況、たとえば環境問題や少子高齢化など、新たな課題が生じる時代をむかえて、ジェネラリストの必要性がより強く意識されている。専門家の知識をこえた事柄に関わる言論の技術を、浅野氏は「常識」や「人間としての教養」として強調するが、それを培う学びがレトリックであった。現代の私たちにその意義はより大きくなっている。
このように、日本でも言論を展開する重要性への認識は高まり、実際にその技法も広まっているが、浅野氏が強調するのは、修辞の技法、つまり上手く話すレトリックではなく、論証を作る論理的な弁論術である。古代でレートリケーと呼ばれて実践され、研究されたこの技術を理論化したのがアリストテレスであり、本書の主要部は彼の講義録『弁論術』の解説に当てられている。『弁論術』はこれまで、日本ではそれほど重視されてこなかったが、西洋文明では歴史において長らく重要な教育的、文化的意義を担ってきた著作であり、浅野氏の明快な解説はそれ自体で大きな意味がある。本書の中核をなす固有トポスと共通トポスの紹介は、私たちが問題に直面した際に活用すべき思考を促し、実践的な議論へと誘う。
古代ギリシアの弁論術(レートリケー)といえば、口先で聴衆を欺き、人心をコントロールするソフィスト的な術として、プラトンが厳しく批判したことで知られている。そのターゲットはゴルギアスやトラシュマコスといった当時流行の弁論家たちであった。だが、アリストテレスの立場はプラトンとはやや異なり、弁論術の積極的な意義に焦点をあてて、それが成り立つ技術としての柱を論理学との関係で明らかにすることに向けられた。両者の態度の違いは重要である。浅野氏が折に触れて警告するレトリックの「恐ろしい結果」は、プラトンが強調する否定的側面にあたるが、それを避けるためにレトリックを拒絶したり否定したりするのでは現実社会での解決につながらない。むしろ正しいレトリックを論理との関係で分析し、それを知識として共有して、いわば防護服か解毒剤のように身につけることで、実際の言論に正しく対処することができるのである。アリストテレスの『弁論術』は、これを読めば議論がうまくなるとか、人前で気の利いたことを流暢に話せるというマニュアルではない。むしろ、それを理論化することで人間の言論と思考の根元を学ぶという種類の哲学書なのである。
プラトンとアリストテレスの間には、かれらのライバルで、アテナイで弁論術の学校を開いて好評を博していたイソクラテスの言論活動がある。本書はまた、そういった伝統の背景やその後の経緯なども紹介し、レトリックの基本と歴史を知る絶好の入門書となっている。日本の伝統文化にはやや疎遠にもみえる古代ギリシアの言論文化は、なによりもレトリックの歴史的研究によって私たちに生き生きと伝えられる。
本書が公刊された1996年にはまだ手に入らなかった翻訳や、新たに訳し直された書籍が、その後続々と出ている。近年の出版状況を簡単に紹介して、本書を読む参考に供したい。まず、アリストテレス『弁論術』では岩波文庫の戸塚七郎訳に加えて、2017年には岩波書店「新版アリストテレス全集」(内山勝利、神崎繁、中畑正志編)の第18巻に堀尾耕一の訳と解説が出版された。新訳では、本書で「説得推論」と訳されているキーワード「エンテュメーマ」に「想到法」、「説得立証(ピスティス)」には「証し立て」という訳語があてられている。また、2014年に出た同全集の第3巻には、山口義久担当『トポス論』と私の担当『ソフィスト的論駁について』の新訳と解説が収められている。『トピカ(トポス論)』については他に、2007年に池田康男訳が、京都大学学術出版会の西洋古典叢書から刊行されている。
プラトンやアリストテレスのライバルで弁論術の理論を発展させたイソクラテスの現存作品は、西洋古典叢書から1998年と2002年に出た小池澄夫訳『イソクラテス弁論集1、2』ですべて読めるようになっている。その解説として最適な廣川洋一の名著『イソクラテスの修辞学校』(初版、岩波書店、1984年)は、二〇〇五年に講談社学術文庫で再版された。イソクラテスの研究は廣川氏の本以後あまり進んではいないが、ゴルギアスやアルキダマスといったソフィストの言論活動との関係では、拙著『ソフィストとは誰か?』(初版、人文書院、2006年、改訂版、ちくま学芸文庫、2015年)が論じている。
ローマ期の弁論家キケロの著作については翻訳が格段に進んでいる。岩波書店「キケロー選集」(岡道男、片山英男、久保正彰、中務哲郎編、1999~2002年)全十六巻には、政治弁論や哲学著作や書簡集とならんで、修辞学関係の著作『発想論』『弁論術の分析』(片山英男訳、第6巻)、『弁論家について』(大西英文訳、第7巻)が収められている。『弁論家について』は岩波文庫(全2巻、2005年)でも入手できるが、西洋弁論術の伝統においてもっとも重要な著作であり、弁論術に関心のある方に勧めたい。また、本書刊行時には部分訳しかなかったクインティリアヌス『弁論家の教育』も、森谷宇一らの翻訳(全5巻)で2005年から翻訳が進められている。ロンギノスとディオニュシオスの『古代文芸論集』(戸高和弘、木曽明子訳、2018年)や、プラトンやアリストテレスと同時代に活躍したリュシアスやアイスキネスやデモステネスといった高名な弁論家の現存作品も、西洋古典叢書で読めるようになっている。
このように、浅野氏の本が出て以降に古代の弁論術関係の翻訳が充実し、基本書の日本語訳はかなり揃ってきたと言ってよい。他方で、それらを対象にした一般向けの解説書、および、さらに発展した専門研究書はまだあまり出てきていない。本書の再版をきっかけに、日本語でアクセス可能になった古代レトリックの著作に直接学びながら、現代におけるレトリックの意義を論じる言論が今後さらに発展することを期待したい。
本書の著者である浅野楢英氏とは、学会の折にお目にかかる程度の関係で、弁論術の御研究などをきちんと議論する機会もないまま、2016年に逝去の報に接した。本書の後でソフィスト関係の本をいくつか発表した私には、とりわけ残念に思っている。そのようなお付き合いではあったが、私には、思慮深い論理学者らしくシャイな方で、あまり自分からお話しになるタイプではないように見えた。研究成果を織り込みながら一般の人々に分かりやすく書かれた浅野氏の御本が、このような形で再び広く読まれるようになるのは、喜ばしい限りである。