反映論の彼方へ
本書は思想家・鶴見俊輔(1922-2015)の漫画論を網羅的に編纂した選集である。幼少の頃から漫画の熱心な読者だった鶴見は、戦後から晩年まで、同時代の漫画を盛んに論じた。本書の目次に端的に示されているように、その対象はアメリカの新聞漫画から長谷川町子、手塚治虫、白土三平、水木しげる、つげ義春、山上たつひこ、竹宮惠子、萩尾望都、鳥山明、宮崎駿まで、じつに幅広い。むろん、厳密に言えば、漫画に注がれる熱量はそれぞれ異なっている。だが、文末に明記された初出の時期を一瞥すれば、鶴見の漫画への熱意が、世紀をまたぐほど長いあいだ一貫して持続していたことがわかるはずだ。鶴見の人生には、つねに漫画が同伴しており、彼は漫画とともに思想を練り上げていたと言っても過言ではあるまい。
しかし鶴見俊輔の漫画論は、知の巨人としての知名度とは裏腹に、じつのところ正当に評価されてこなかったのではないか。政治思想や大衆文化論が今も粘り強く読み継がれている一方、鶴見の漫画論が読まれる機会は乏しいと言わざるを得ないからだ。その代表的著作ともいえる『漫画の戦後思想』にしても、『鶴見俊輔集7 漫画の読者として』(筑摩書房、1991年)に辛うじて所収されているにすぎない。そのため本書の刊行は、今日の私たちに鶴見俊輔の漫画論を改めて再検討する機会を提供するだろう。
ただ、鶴見俊輔の漫画論が正当に評価されてこなかった要因は、昨今の世知辛い出版事情に求められるだけではない。それは、鶴見をはじめ石子順造や佐藤忠男ら、1960年代の漫画批評を切断するかたちで制度化された現在のマンガ論の系譜にも由来しているように思われる。そのため、ここでは戦後の漫画批評史における鶴見俊輔の位置づけを再検証することで、鶴見の漫画論の核心を導き出したい。
現在のマンガ論の端緒のひとつが、1990年代前半に夏目房之介が提起した表現論にあることは広く知られている[1]。表現論とは、マンガの基本的な構成要素を絵と言葉、そしてコマの三つに求め、それらが相関する構造を前提としながらマンガの主題や内容を分析する立場を指している。夏目によれば、表現論の根底には、マンガを外在的に語る先行世代への反発があり、「マンガをマンガとして語る」のでなければマンガを語ったことにはならないという世代的な共有意識があったという[2]。四方田犬彦もまた、80年代後半、すでに「マンガにはマンガ固有の内的論理が存在している」[3]として、マンガを内側から批評する立場を明確に打ち出していたから、漫画批評史における表現論はおおむね1990年前後に育まれたと言えるだろう。
重要なのは、表現論が生まれた背景には、それまでの漫画批評からの意図的な断絶があったという事実である。表現論が批評的に切り捨てた漫画批評は、反映論として形容されることが多い。反映論とは、たとえば『サザエさん』は戦後民主主義のイデオロギーを体現しているとか、『カムイ伝』は階級闘争を反映しているとか、マンガを大衆社会ないしは大衆自身の反映とみる立場である。大衆文学や映画批評、思想史といったマンガ以外の科学的方法論によってマンガを語る身ぶりと言ってもいい[4]。そうした外在的な批評に飽き足らなかったからこそ、マンガを愛読してやまない、自称「マンガ世代」の論者たちは、マンガをマンガの自律的な構造のもとで内在的に語る表現論を確立したのだった。表現論対反映論という構図は、マンガ批評やマンガ研究にとっての基本的な枠組みとされてきた。
さて鶴見俊輔の漫画論は、以上の整理によれば反映論とされる。事実、鶴見の漫画論には、たとえば『がきデカ』は日本の高度経済成長時代を反映していると言明しているように[5]、後続世代から反映論という謗りを招きかねない甘さがあることは否定できない[6]。夏目も、「マンガの表現としての側面を語る言葉のないままに、社会の様相変化の反映論で直線的に安易に作品を論じられたりすることへの違和感」[7]を表明している。もっとも夏目は、そのような先行世代にたいする違和感が「父親世代にたいする感情的な、あるいはコンプレックスがらみの反発だった」[8]と自省しているから、反映論という一方的な烙印はやや公平性や客観性に欠けていたのかもしれない。けれども鶴見の漫画論が、石子順造と並んで、マンガ世代にとって批判的に乗り越えるべき大きな壁だったことは、ほぼ間違いないだろう。
とはいえ鶴見の漫画論を反映論として切って捨てるのはあまりにも惜しい。そこには反映論の要素を含みつつも、それ以外にもじつに多様な論点が内蔵されているからだ[9]。近年、表現論と反映論という図式が批判的に相対化されつつあるように[10]、マンガ論の豊かな蓄積と拡充を目撃している私たちが鶴見俊輔の漫画論を改めて読み返すことの意義は、それを安直に表現論と反映論という構図に回収することなく、表現論でも反映論でもない地平にその本質を見出すことにあるのではなかったか。
鶴見俊輔の漫画論の核心はどこにあるのか。むろん、その発掘作業は一人ひとりの読者に委ねられている。ただ、私見を開陳するならば、それはおそらく想像力の自由自在な飛翔にあるように思う。いや、マンガ世代による反映論というレッテル貼りに批判的に応答することを念頭に置けば、「飛翔」というより「飛躍」というべきなのかもしれない。鶴見の漫画論の重心は学術的な論証というより批評的な推断に置かれているからだ。それが、たとえば親子のあいだの因果関係を時としてあまりにも短絡的にとらえすぎるきらいがあることは事実だとしても[11]、みずからの個人的な記憶から国内外の社会、さらには地球や宇宙、そして人類が死滅した後の世界(!)にまで想像力を飛躍させる自在な運動性こそ、鶴見の漫画論の醍醐味である[12]。本書に通底しているのは、それぞれの漫画のなかに現われたさまざまな世界に焦点を合わせながら視線を前後に往来させる、彼自身に「特有の遠近法」[13]にほかならない。読者は本書の随所に鶴見ならではの視座で縁取られた世界を発見するだろう。
註
[1] 夏目房之介・竹熊健太郎他『マンガの読み方』宝島社、1995年
[2] 夏目房之介「マンガ表現論の「限界」をめぐって」、『立命館言語文化研究』13(1)、2001年、96頁
[3] 四方田犬彦「マンガ批評宣言にむけて」、米沢嘉博編『マンガ批評宣言』亜紀書房、1987年、5頁
[4] 竹内オサム「マンガ批評の現在――新しき科学主義への綱わたり」、米沢嘉博編『マンガ批評宣言』亜紀書房、1987年、71頁
[5] 本書第2巻、560頁
[6] とはいえ鶴見の反映論は、社会を映し出すだけでなく、みずからを批判的に映し出す自己批判の側面も含んでいたように思われる。『がきデカ』を論じるなかで、鶴見は次のように述べているからだ。「性と金の欲望に動かされて、自分の行動をつねに正当化し、他人を批判してまわる少年警察官こまわり君は、東亜の盟主を名乗る日本帝国にとって必要な鏡だった」(本書第2巻、362頁)。
[7] 夏目房之介『マンガ学への挑戦』NTT出版、2004年、78頁
[8] 夏目前掲書、192頁
[9] 鶴見の漫画論に表現論の要素がないわけではない。白土三平の『忍者武芸帳』について言及するなかで、鶴見は白土の技術的な特徴を、ストップ・モーションで止めた一枚の絵を文章で解説する手法に見出し、その方法が白土がかつて経験していた紙芝居に由来していると分析している(本書第1巻、478頁)。
[10] 瓜生吉則「マンガ論の系譜学」、『東京大学社会情報研究所紀要』№56、1998年/瓜生吉則「マンガを語ることの〈現在〉」、吉見俊哉編『メディア・スタディーズ』せりか書房、2000年
[11] 鶴見は、白土三平の『忍者武芸帳』のワンシーンに白土の父、岡本唐貴が出会った小林多喜二の虐殺の経験を重ね(本書第2巻、558頁)、また『寄生獣』の岩明均の想像力は原始人の技術を研究している人類学者で岩明の父である岩城正夫が養ったと断じている(本書第2巻、376頁)。
[12] 村上知彦は『イッツ・オンリー・コミックス 黄昏通信増補版』(廣済堂出版、1991年)においてマンガの魅力を「まんがはもっと大きなもの、全世界であり、全宇宙であり、存在そのものでありうる」(同書、331頁)とやや大袈裟に述べているが、こうした言い方が世代的な象徴としてマンガを賞揚する修辞であることは事実だとしても、同時に、特有の遠近法によって想像力を飛躍させる鶴見との連続性を物語っているように思えなくもない。
[13] 本書第1巻、369頁
イメージ論としての「読者-作者共同体」
鶴見俊輔は「特有の遠近法」をとおして、社会や宇宙、死後の世界、さらには人類が滅亡した後の世界まで、漫画の奥にじつにさまざまなイメージを見ていた。言い換えれば、漫画に直接的に描き出されているわけではないし、彼の眼球に映し出されているわけでもないにもかかわらず、鶴見はそうしたイメージをたしかにとらえていたのである。むろん、こうした言い方は科学的ではないし学術的でもない。だが、そのようなある種の「まぼろし」は、じつのところ漫画はもとより絵画や彫刻、詩や音楽、ダンスや芸能といった芸術全般の通奏低音ではなかったか。私たちは物質や肉体によって表された作品の向こう側に、つねにそのようなイリュージョンを見出して楽しんでいるからだ。そのような不可視のイメージを言語化しうるのが批評だとすれば、鶴見俊輔はまちがいなく漫画批評家であり、断じて研究者ではなかった。
とりわけ突出していたのが、読者のイメージである。鶴見にとって漫画は、作者が表現した創作物であると同時に、読者の「さまざまの読み方を許すひらかれた作品」[1]だった。つまり、他の文化芸術とは比べ物にならないほどおびただしい読者を抱える漫画を、彼らがコミュニケーションを交わすメディアとして考えていたのである[2]。
メディアとしての漫画――。そのような漫画の側面をわかりやすく示したのが「読者-作者共同体」である。これは文字通り読者と作者によって構成された集団を示す概念だが、ここでいう読者と作者とは必ずしも固定された属性ではない。「その集団の要求に応じて、その集団内部の誰かが、絵をかいたり、歌ったり、物語をした」[3]と書き記しているように、鶴見は読者と作者をそれぞれ入れ替え可能な役割として考えていた。それゆえ、彼はその共同体におけるコミュニケーションに読者が漫画を模写するエピゴーネン(模倣、嚙み砕いて言えば、パクリ)も含めていたのである。読者が「書く」だけではなく、「描く」こと。つまり「描く」という表現行為を媒介とすることで読者と作者が交換可能であること。鶴見は紙芝居や貸本屋、そして「ガロ」の母体だった青林堂のような小出版社を念頭に置いていたようだが、「読者-作者共同体」が現実的にどの程度存在していたのか、また読者と作者が交換可能な類のコミュニケーションがどの程度交わされていたのかと問うことは、さほど重要ではない。「読者-作者共同体」は、現実のコミュニティを基盤としているというより、鶴見のイメージに由来しているからだ。むしろ注意したいのは、天才的な芸術家による独創的な表現に普遍的な価値を与える近代的な芸術観を尻目に、鶴見が「読者-作者共同体」というイメージによって集団的な創造性の次元を照らし出し、そのことによって漫画をめぐる同時代を捕捉していたという事実である。
個人の表現を特権化する近代芸術を相対化する、もうひとつのイメージが限界芸術であることは言うまでもないだろう[4]。それは専門家同士でやりとりされる純粋芸術や専門家がつくる作品を非専門家が受け取る大衆芸術とは対照的に、非専門家たちの芸術である。純粋芸術の観点からすれば技術に乏しい素人の身ぶりにすぎないのかもしれないが、当の素人にとっては、ある種のまとまりをもった完結性と日常から一時的に離脱する脱出性を備えた美的経験がありうる。日常の暮らしにありながら芸術と重なり合う両義的な領域。それを鶴見は限界芸術と呼んだ。漫画を作者の創作物として狭くとらえるのではなく、読者の読解や模倣の側面も含めて広く考えたように、鶴見は限界芸術の地平を視野に収めながら芸術の輪郭を私たちが思っている以上に大きく描いてみせたのである。
けれども残念ながら、限界芸術も「読者-作者共同体」も、ともに戦後の美術史および漫画批評史から排除されてしまった。「読者-作者共同体」は、権力機構に回収しえない民衆という鶴見自身の欲望を投影した「ロマンティシズム」にすぎないと診断する論者がいれば[5]、匿名の民衆が芸術を共有する「マルクス主義的コミューン」という幻想にすぎないと評定する論者もいる[6]。事実、鶴見の漫画論には「理想」という言葉がきわめて頻繁に用いられているが、「読者-作者共同体」が退けられたのは、もっと別の理由があるように思う。
限界芸術的な「読者-作者共同体」は、読者と作者の交換を可能にする集団的な創造性に焦点を当てていたがゆえに、個人的な創造性によって読者と作者を明確に峻別する近代芸術という価値観を失効させる恐れがあった。限界芸術は生活と芸術が重複する領域を切り開くが、それは芸術を非芸術に転落させかねないし、反面、あらゆるものを芸術に格上げする可能性を担保してしまう。「読者-作者共同体」にしても、匿名で集団的な創造性を前景化する代わりに、特別な才能に恵まれた漫画家を後景に隠してしまう。限界芸術的な「読者-作者共同体」とは、とどのつまり限界を超えてもなお表現を極限化させるラディカリズムだったのであり[7]、その過激な極限化に耐えられなかったからこそ、限界芸術も「読者-作者共同体」も歴史の陰に追放されたのではなかったか。
一方、現在のマンガ論の原点のひとつと言える表現論は、マンガ・モダニズムとして考えることができる。モダニズムとは、西洋近代に由来する近代の価値観を日本の土着的で封建的な社会に定位させようとしたプロジェクトであり、とりわけ芸術の分野においてはジャンルの自律化として現れたが、いかなる外在的な方法にも頼らず、マンガをマンガ固有の論理で内在的に語ろうとする表現論は、モダニズム以外の何物でもないからだ。表現論は、マンガそのものの論理を解明することで、マンガを分類し、歴史を物語り、ひいては学術的に制度化してきたが、その奥底ではそのような分類と歴史化と制度化を使命とするモダニズムの価値観が作動していたにちがいない。
しかし、昨今のマンガをめぐる状況は一変した。デジタル・デバイスを誰もが所有する社会は、誰もがマンガを読む局面を超えて、誰もがマンガを描き、誰もがマンガについて説書く環境を整えた。かつて漫画の本格的な商業化とともに立ち消えてしまった「読者-作者共同体」は、マンガが産業としては右肩下がりになりつつある現在、鶴見が幻視していたイメージとは別のかたちで再び召喚されていると言ってよいだろう。だとすれば、現在のマンガ論を中心に編纂されたマンガ批評史もまた、「読者-作者共同体」という観点から再編成されるべきではないか[8]。
モダニズムとラディカリズム――。表現論と反映論という構図が批判的に相対化された今、鶴見俊輔の漫画論は以上のような図式でとらえるのがふさわしい。ラディカリズムは、いかがわしく、不真面目で、不良の哲学でもあるが、私たちの心をつかんで離さないのである。
註
[1] 本書第1巻、383頁
[2] 同じくメディアとしての漫画に注目していたのが石子順造である。「表現された作品は、メッセージとしてではなく、読み手もまた表現として参与できる、したがって両者の関係の構造として、メディアとでもいうしかない出会いとしてありうる場のアクチュアリティとして、とらえ返しうると思う」(石子順造「エロスと暴力を超えて」、『石子順造著作集第三巻』 喇嘛舎、1988年、224-225頁)
[3] 本書第1巻、467頁
[4] 鶴見俊輔『限界芸術論』ちくま学芸文庫、1999年
[5] 夏目房之介『マンガ学への挑戦』NTT出版、2004年、116-117頁
[6] 可児洋介「鶴見俊輔と石子順造のコミュニケーション論――源流としての中井正一 ――」、「マンガ研究」vol. 21、2015年、19頁
[7] 現代美術でいえば、日常的な廃物を再利用して芸術作品とした「反芸術」や、裸体を含む過激な身体表現を繰り広げた「反芸術パフォーマンス」、物質や物体に手を加えることなくそのまま作品とした「もの派」などが、ここでいうラディカリズムに相当する。
[8] 夏目房之介は、七〇年代後半に登場した、村上知彦ら「マンガ世代」による「私語り」のマンガ批評と、鶴見のいう「読者-作者共同体」との連続性を暗示しているが、その歴史的系譜を実証する研究が待望される。夏目『マンガ学への挑戦』NTT出版、2004年、178-191頁