ちくま新書

対日諜報戦の主役たち
言語官の動員、養成、戦地での活躍、二世語学兵の葛藤、戦犯裁判、GHQの占領政策

情報力は戦争の勝敗を決するカギ。太平洋戦争で、連合国軍は日本語の専門家の確保と養成をしました。さまざまな事情から言語官に志願した日系二世たちは「二つの祖国」の狭間で苦悩しながら任務を果たしました。 貴重な軍事資料を紐解き、情報戦の真相に迫る『太平洋戦争 日本語諜報戦』の冒頭を公開します。

監視される二世学生
 熊本市の九州学院(私立の中高一貫校)には、太平洋戦争が始まる前から戦中にかけて同校で学んだ日系アメリカ人・カナダ人二世の名簿が残っている。
 ハワイや北米に移住した一世の中には、現地で生まれた子どもたち(二世)に祖国の言語や文化を学ばせたいなどの思いから、子どもたちを自分の出身地の親戚宅に送り、日本で教育を受けさせる者がいた。
 特に一九三〇年代は、日本が金本位制から離脱したことで円安が生じ、日本への渡航費が安上がりになったこともあり、多くの二世が留学のために、また新境地を求めて渡日した。それは、不況下にある北米での人種差別や偏見による就職難から逃れ、新たな帝国主義勢力として台頭する日本で仕事の機会を求める、あるいは将来日本との「架け橋」になることを期待しての動きだった。また、激しい排日感情の吹き荒れる北米での生活に終止符を打ち、帰国を決意した一世の親と行動をともにした二世もいる。
 ハワイや北米で生まれ育ち日本語力の弱かった二世を受け入れる日本の学校は限られていた。戦前、広島、沖縄に次いで最も多くの移民を出した「移民県」として知られる熊本でも、特別な日本語クラスを用意するなどして二世の生徒を進んで受け入れる中等教育機関は数校しかなかった。その一つが九州学院である。
 同学院は一九一一年にアメリカ人宣教師によって創設されたルーテル教会系のミッションスクールで、宣教師や米国留学経験者が教鞭をとるなど従来から米国とのつながりがあり、日系二世の受け入れに熱心だった。移民の奨励や支援を行う熊本移民協会との連携もあり、二世のための日本語強化クラスや帰国を前提としたカリキュラムを設置するなど公立高校では見られない柔軟な対応をしたことで、一時は五〇人ほどの二世が在籍したこともあったという。一九三九年には在日アメリカ人二世チームによるフットボール大会が九州学院で開かれたほどである。また、一九四〇年に稲冨肇院長が訪米した際には、ロサンゼルス在住の二世卒業生八人と食事会が催されたことが記録に残っている。
 このように二世の教育を積極的に支援する九州学院で彼らの名簿が作成されたのは、警察署などに提出するためだった。在京の二世が関わった刑事事件などに端を発し「日系外国人」を反社会的な危険分子と見るようになった内務省は一九三三年末、各県警に対し日系人居住者について調査をするように命じた。一九三〇年代後期に入ると、二世は外国のスパイだという疑いをかけられ、さらに厳しい監視下におかれるようになった。
 真珠湾攻撃の九日前にあたる一九四一年一一月二九日に九州学院が熊本北警察署長に提出した「日系二世(二重国籍)調査に関する件」には、二五人の二世(ハワイ出身一四人、米国本土出身一〇人、カナダ出身一人)の住所、氏名、生年月日、出身地、帰来月日が記載されている。また、戦争中の一九四三年八月二四日に熊本県内政部長に提出された「在外邦人子弟生活調査書」には、一二人の二世(米国本土出身八人、ハワイ出身三人、カナダ出身一人)に関し、父兄の原籍、現住所、職業、生徒との続柄、氏名、および生徒の寄留先、進学希望、学年、氏名が示されている。彼らは敵国のスパイであるかのように憲兵から監視されていた。
 興味深いことに、九州学院で学びながらこうした調査報告や監視の対象となった日系二世たちの中には、一九四五年九月二日戦艦ミズーリ号上での日本の降伏文書調印に通訳官として関わった者が二人いた。

ミズーリ号に乗艦した元特攻隊員
 竹宮帝次は一九二三年カリフォルニア州生まれ。一九三九年、高まる日系人排斥の動きに危機感を持った父親の判断で一家そろって祖父母の故郷である熊本に移った。当時一六歳だった竹宮は九州学院に入学したが、日本語がままならず、まずは二世対象の特別クラスで日本語を学び、その後通常の授業を受けるようになった。
 在学中に太平洋戦争が勃発し、憲兵に尾行される辛い日々を送ったが、一九四三年には卒業し、青山学院大学に進学した。しかし同年、学徒出陣で海軍に入隊。特殊潜航艇(潜水艦による特攻隊)の艇長として出撃命令を待つ身となった。終戦間際に英語力をかわれて軍令部の所属になり、慶應大学日吉校舎で海外ラジオ放送の傍受をする任務についた。
 終戦後の八月二七日、竹宮は一週間後にひかえた降伏文書調印式に関する事前折衝の通訳を命じられ、相模湾沖に停泊中のミズーリ号に乗艦した。二人の日本側使者と米軍側との話し合いは八時間も続き、蒸し風呂のような士官室で汗をぬぐいながら、また食事も与えられないまま、ひとりで通訳の任務を果たしたという。
 その仕事ぶりが気に入られたのか、竹宮は米海軍司令官から通訳者として指名された。それ以来、半世紀にわたり横須賀の米海軍基地に勤務し、港湾統制部最高責任者や民事部長を務めた。一九六四年米国の原子力潜水艦が日本に初寄港したとき、エドウィン・ライシャワー駐日米国大使の会見を通訳したのも竹宮だった。二〇一〇年に死去したが、竹宮の功績をたたえて名付けられた施設「クラブ・タケミヤ」は今も池子米軍住宅内に残っている。

降伏文書をチェックした剣道家
 トーマス・サカモト(坂本時雄)は一九一八年カリフォルニア州生まれ。一一人兄弟の長男だった。一九三四年、長男には日本で教育を受けさせたいと願った父親が故郷の熊本にサカモトを送った。入学したのが九州学院である。在学中に剣道二段の腕前となり、試合で全国を回った。また、軍事教練にも参加し、旗持ちなどリーダー的役割まで果たした。教官だった将校に士官になることを勧められたが、アメリカ人であることを理由に断った。教官は激怒し、サカモトを裏切り者扱いしたという。鹿児島の学校への進学の道もあったが、一九三八年卒業と同時にカリフォルニアの家族に呼びもどされた。
 カリフォルニアでは両親と農業に従事し剣道も教えたが、一九四一年二月には徴兵され米陸軍に入隊。日本と米国両方の旗をふり「バンザイ!」と叫ぶ家族に見送られた。まもなくサカモトは、日本との開戦を予想して陸軍がサンフランシスコに設置した日本語学校に送られ、同年一一月、日本語の軍事用語などを学び始めた。まもなく日米開戦。日本語学校での六か月の訓練を終えた後は、教師として同校に残るように命じられた。一九四二年五月に同校はミネソタ州に移転。家族がアーカンソー州の強制収容所に収容され続ける中、サカモトはミネソタで一年間教鞭をとった。
 その後、戦地での任務を希望し、オーストラリア・ブリスベンにあった連合軍翻訳通訳部(Allied Translator and Interpreter Section, ATIS)に派遣された。ニューギニアなど危険な戦闘の最前線にも送られ、日本軍が残した作戦文書や手紙類の翻訳、日本人捕虜の尋問、日本兵への投降の呼びかけなどの任務を果たし、戦功章の一つであるブロンズスターメダルを授与される活躍をした。
 終戦後の八月二九日、サカモトは米軍将校として日本に上陸した。翌日、ダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立ち記者会見を行った際、サカモトはマッカーサーのすぐ背後に立ち、連合国と日本の記者団に対応した。
 そこでサカモトはやはり九州学院出身である二世の友人と遭遇する。和田隆太郎(ジミー・ワダ)である。ハワイ出身の和田は一九三五年九州学院に編入学し、サカモトよりも一年早い一九三七年に卒業して、明治大学に進学した。同大学では野球部に所属し、一九四一年六月にはハワイ遠征に参加している。その後、日米開戦前に海軍の軍属として志願し、英語力を生かして、諜報通信関係の特信班で働いたとされる。終戦時、日本の記者団の中になぜ和田がいたのかを示す資料は見つかっていない。その後、サカモトは米軍物資を渡すなどして和田を助けたという。
 九月二日のミズーリ号上で行われる日本の降伏文書調印式の準備にあたり、サカモトは降伏文書をチェックする役目を果たし、当日は、連合軍の記者団に同行した。同調印式への出席を許されたごく少数の二世の一人だった。

運命の分かれ目は開戦時の居場所
 九州学院出身の二世の中で、米軍で功績をあげたもうひとりの語学兵にダイ・オガタがいる。オガタは一九一六年ワシントン州生まれでモンタナ州育ち。ロサンゼルスで仕事を転々としながら資金を貯めて、一九三八年に父親の出身地である熊本に渡る。一九四〇年まで九州学院で学び、朝鮮や満州を旅行した後モンタナに戻った。
 一九四二年二月米陸軍に志願し、六月にはミネソタの日本語学校に送られた。六か月の訓練後、南太平洋の戦線に派遣され、語学兵チームのリーダーとして活躍した。ブーゲンビル島で日本軍による激しい爆撃を受けながら任務を全うし、パープルハート章(戦傷章)を授与された。一九四四年に米国に戻り、将校となる。
 一九四五年二月にはミネソタの日本語学校の職員となり、四月には教官としてバンクーバーのカナダ陸軍日本語学校(S - 20)に派遣された。終戦直後はワシントン郊外の太平洋地域軍陸軍情報研究部(Pacific Area Command Military Intelligence Research Center,PACMIR)、その後ワシントン文書センター(Washington Document Center, WDC)で日本軍関連の文書の選別・翻訳作業に携わった。
 竹宮、サカモト、和田、オガタは同じ米国出身の二世として九州学院で学んだが、開戦時にどこにいたかによって、異なる運命をたどった。しかし、四人に共通しているのは、戦時中、偏見や差別と戦いながらも、日英のバイリンガル能力を使った諜報活動に携わったことである。
 特にサカモトとオガタは、連合軍による対日諜報戦において、日米両国で教育を受けた者としての語学力や知識がフルに活用できる任務を与えられたと言える。マッカーサーが述べたとされる「実際の戦闘前にこれほど敵のことを知っていた戦争はこれまでになかった」という発言や、二世語学兵が「一〇〇万人の米国人の命を救い、戦争を二年間短縮した」というチャールズ・ウィロビー少将(マッカーサーの情報担当官)の発言は、日本軍文書の翻訳、通信の傍受、捕虜の尋問などを通して得られた情報が連合軍の勝利に大きく貢献したという認識を裏打ちするものである。

【目次より】
序 章 熊本・九州学院に残された名簿
第一章 米軍における二世語学兵の活躍と苦悩
第二章 ロンドン大学と暗号解読学校
第三章 頓挫した豪軍の日本語通訳官養成計画
第四章 カナダ政府の躊躇
終 章 戦争と言語