沖縄戦とはつまり、「鉄の暴風」。三三年前、糸満市摩文仁の平和祈念公園内にあった旧沖縄県立平和祈念資料館を訪れたときのこと、階段を上がった先に、夜空を無数の光の線が覆う写真が掲げられていた。添えられていたキャプションが「鉄の暴風」。沖縄戦を示すのにこれ以上の言葉はない、と驚いた。
これが本のタイトルだと知ったのは沖縄へ移り住んでからだ。本書は一九五〇年の発刊から一〇版を重ねてきた、まさに沖縄戦記の「原典」。敗戦からわずか五年の沖縄で、地獄の戦場を生きのびた住民たちが沖縄戦をどう認識していたのかがわかる。構想から一年、原稿はたった三か月でまとめたというが、電話も満足に使えない、社用車などもってのほか、ましてや現代のようにメールやチャット、リモート取材など存在せず、かつ米軍の検閲もあった。そんな条件下でここまでの記録をなしえたのは、まったく記者たちの執念だったとしか思えない。
当時、何が書けて何が書けなかったのだろう。まず男性の証言は圧倒的に多い。新聞人としての戦場体験はもちろん、防衛隊、義勇隊、護郷隊、県庁・市町村職員、団体職員、警防団員、教員らだ。いわばこの時期に語ることができる環境にあった人物たちとも言える。また、首里の第三二軍司令部壕内で何が起きていたかも細部にわたって記述している。記者として壕の出入りを許されていたからだ。
一方、女性たちの体験はというと、男性が見てきた戦場の一場面としてわずかに描かれる。第三二軍司令部で、北部山中に身をひそめる将官の脇で、何人もの女性の姿が確認できる。そして将兵による子殺しの場面での母親たち。泣く子を黙らせろと敗残兵に迫られ、「日本刀や、銃剣を突き付けて、壕の近くにあった池に、「子供を抛(ほう)りこめ」と脅され、親達は、仕方なく、子供達を池に抛り込んだ。はい上ろうとする子供は、頭を押さえつけて溺死させた」、「兵隊が、親を脅し、三人の子供達に注射をほどこして、息の根を止めた。敗残兵のために、愛児を奪われた女は、半ば狂ったように、据わらぬ目を壕に注いでいた」といったように。
同じ女性でも、ひめゆり学徒隊の項目は全体の二割の紙幅を割いた。戦後初期から引率教員の仲宗根政善氏が学徒の体験をまとめていたこともあり、分厚い記述が可能だったのだろう。
沖縄県民が軍からスパイ視された事例も多く記載されている。座間味島・渡嘉敷島のほか知念半島などの南部一帯、本部半島や名護など北部でも、あらゆるところで「スパイ」、「米軍と通じた」と疑われ、県民は理不尽に大量に殺された。第三二軍幹部までもが「警察も、新聞記者も、否、沖縄人はみながみな、スパイだ……」と言い出す。疑心暗鬼を越えて、不利な戦局を県民に責任転嫁する「友軍」の実態が描かれている。
援護法が沖縄に適用されていないこの時点で、「集団自決」(強制集団死)が「軍命によって」なされたことが、渡嘉敷島・座間味島で確認されている。この点は巻末の石原昌家氏による「解説」が詳しい。沖縄戦の実相をゆがめられないために、重要な事実であることを押さえておきたい。
書かれていないことは当然いくつもあるが、例えば現在、沖縄戦学習で取り上げられる読谷村チビチリガマでの惨事、嘉数・前田高地の戦い、白梅学徒隊など野戦病院に動員された女子学徒の姿、宮古・八重山地方で起きた餓死、マラリア禍などがあげられる。しかしそこからは、語り出せるまでに長い時間を要したであろう多くの存在があったことに気付かされる。
戦後八〇年を迎えようとする今、本書が改めて全国に送り出される意味は何か。ここに記録された景色から現在までが地続きの沖縄では、再び戦場にされようとしている空気を確かに感じている。改めて「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓を広く共有するときではないだろうか。進行形の世界の戦場を目の当たりにして、「鉄の暴風」が止んでもなお続く過酷な社会を知る者は皆、その責任を負っている。
(よしかわ・ゆき 沖縄国際大学非常勤講師)