権力をしばる「立憲的改憲」。
このコンセプトを掲げて、改めて憲法議論に向き合ったとき、その閉塞感を再確認しました。そもそも、憲法議論といえば、「護憲派」「改憲派」に二分され、「護憲派」からは不安の声、「改憲派」からはとまどいの声。
野党や市民の側が権力をしばるための憲法改正を提起することは、理屈の上でも他国の例をみても極めて合理的で自然なはずなのに、日本では少数派。
権力者の側から、自らへの制約を解き放とうとする改憲案ばかりが提示され、権力を制約し統制する具体的提案は息をひそめる社会の空気。
そこでまずは、必ずしも「立憲的改憲」に賛成でなくてもいい。むしろ、「憲法」あるいは「憲法改正」に対する異なる立場の専門家に、批判的見地も含めて「立憲的改憲」を吟味してもらいたい、と考えました。
異なる意見の論者と対話を重ねることで、本質的な共通点を見出したい。さらには、相違点や問題点の指摘を受けて、この「立憲的改憲」のコンセプトを、多くの人々と分かち合える説得力のあるものへとブラッシュアップしたい。
私の専門的知見の不十分さや、検討の未熟さも、全部浮き彫りにする覚悟と引き換えに、「立憲的改憲」の質が高まるなら本望だ。そして、その過程を読者の皆さんと共有して、この国の憲法議論の風通しが少しでもよくなると嬉しい。
こんな思いで、この本の企画が始まりました。あらゆる議論を排除せず、しかしいかなる議論をも盲信せず、他者の視座から見える風景に敬意を払い、楽しみ、驚き、吸収しながら、自らの取捨選択で自らの風景に立体的な厚みを増していく。そんな本にしたいと思いました。
幸い、それぞれ第一線で論陣を張る多彩な専門家が、私のこの無謀な挑戦に肩を貸してくれました。意気投合の瞬間も、緊迫したやりとりも、それぞれの先生の深い知見の一端に触れたときのため息も、そのまま本にしました。
この7つの対論を通じて、唯一なかったもの。それは、冒頭に記したあの閉塞感です。
閉塞感のない自由な空気は、立場を異にする全ての話者が、相互の寛容を前提とした各人の自律した態度、すなわち「リベラル」な態度で対論に向き合って下さったからこそだと思います。リベラルとは何か特定の立場ではなく、物事を考えるときの構え、態度、姿勢です。このリベラルに考える構えさえ共有できれば、憲法議論の閉塞感を吹き飛ばし、豊かな議論のスタートラインに立つことができる。その確信を込めて、副題に「憲法をリベラルに考える」とつけました。
ページをめくれば、知的刺激にあふれた「憲法」をめぐる7つの小旅行が始まります。旅行前にガイドブックを読み込むのが好きな方のために、それぞれの旅先でのエピソードを少しだけ記し、「はじめに」とします。
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阪田雅裕先生は、初対面であったにもかかわらず、対談を通じて惜しみないアドバイスを下さいました。当日対談中、私の九条私案メモの検討をお願いしたところ、その場で丁寧に分析し必要な指摘を下さったこと、感謝の念に堪えません。
安保法制の一線を守る阪田先生の九条私案と、個別的自衛権の一線を守る私の九条私案とは、「自衛隊はこれまで通り変わらない」とする安倍晋三総理による改憲提案を誠実に実践する文案を示すことで、その安倍加憲案の不誠実さを可視化する点において共通します。ただ、「これまで」を「いつまで」と設定するかについては、私は政治家としての政策的立場から二〇一五年安保法制成立前に遡り、阪田先生は政策的にニュートラルな提案として現時点においた、という違いがあるのも、また興味深いことでした。
井上武史先生からは、かねてより、フランスの憲法改正の具体を通じ、改憲の作法について示唆を頂いていました。
「憲法改正」とは、憲法典に限らない様々な法規範を通じた統治機構のリバランスである。この井上先生の視点をぜひ多くの人に知ってもらいたいと思い対談をお願いしました。
対談を通じて明らかなように、井上先生と私は必ずしも集団的自衛権の是非や安倍加憲の評価をめぐって一致しているわけではありません。むしろ、異なる部分が多々あります。
しかし井上先生も私も、「憲法改正」議論を通じて立憲主義をよりよく機能させる挑戦には価値があると信じている。この共通項があれば、個々の政策課題における見解の相違はむしろ議論を豊かにすることを、対談を通じて実感することができました。
逆に、個々の政策課題については共通項が多いのに、「憲法改正」の是非について亀裂が生じるという場面も少なからずあります。この亀裂を埋める知恵を下さったのが中島岳志先生でした。
「統制的理念がなければ、構成的理念は成り立たない」というカントの言葉を引いて、絶対平和という九条の統制的理念(崇高な目標)を手放してはいけない、その目標に近づくための構成的理念(暫定的な政策手段)として自衛権は個別的自衛権に限定することを憲法で宣言することには意味がある、と説いてくださいました。
ともすれば、「九条信奉はお花畑」「改憲は戦争への道」など粗雑な物言いも飛び交う言論空間のなかで(そして、私自身も「分かりやすさ」と「粗雑さ」の紙一重の綱渡りにしばしば失敗するなかで)、中島先生の憲法議論からは、その包容力を学びました。
「絶対平和」という崇高な目標に向けて歩を進めるにしても、当面とるべき外交安保政策の軸は現実味のあるものでなければいけません。国際紛争の現場を踏まえてとりうる日本の選択肢を、飾り気なし誇張なしに語ってくださったのが伊勢﨑賢治先生です。
集団安全保障への日本の関与を非軍事に限定する選択は国際社会から理解を得られるのか、この問いに対する極めて現実的な解は、伊勢﨑先生だからこそ説得力を持つものだと思います。また、憲法裁判所のくだりでは「憲法裁判所のある韓国でも米韓地位協定の不平等を乗り越えられていない点をどう考えるか」と鋭い指摘をいただきました。
九条論を法理論に終わらせず、外交安保論と交差させ、憲法論=主権論として完結させる道筋を見出す対談となりました。
曽我部真裕先生から頂いた最大のプレゼントは、「改憲論というのは常に立憲的でないといけない。むしろ、「立憲的改憲」という言葉が特異に、新鮮に響かないような状況になることが改憲の本来あるべき姿。わざわざ立憲的と断らなくてもいいような状況が望ましい」という言葉でした。また、私は「保育園落ちた」の国会質問以来、「政治家じゃないけど政治を動かす」市民や有識者の声を、いかに統治機構に取り入れることができるか、その制度設計を考えてきました。この点についても先生から、国会において人々の多様な意見を反映するための施策、あるいはさらに具体的に裁判において市民団体など広く当事者以外の声を吸収する「アミカスキュリエ」の紹介など様々なヒントを頂きました。
ともすれば、憲法論が九条論に収斂し憲法議論が改憲議論に直結しがちな言論空間において(私も含め自戒を込めて)、民主主義の厚みを増すための統治機構改革から解きほぐし、むしろ「急がば回れ」、段階的解決手法こそ合理的な場合があることを説いてくださいました。
井上達夫先生との対談では、憲法を通じて国家権力を統制する国民の力を信じるか、というテーマに迫りました。立憲主義に拠って立つなら、憲法による戦力統制が不可欠であり、したがって「戦力不保持」の建前から卒業する必要がある。私が、最終的に、九条二項と「自衛権」の関係を整理すべきだと確信することができたのは、井上先生の論によるところ大です。建前論からの卒業は、実質的議論の大前提であり、日本国民にはその議論を受けとめるだけの知性があるという立場に私も立ちます。
実は、井上先生の最善策は山尾案とは異なります。対談でもおっしゃっていたとおり、井上最善案は、安全保障政策の基本方針については憲法で凍結するべきではなく、ただし手続き的な戦力統制規範は憲法に規定すべしという「九条削除論」です。この点、「専守防衛」を本質的要請として明記すべきという私とは異なるわけです。それでも、この専守防衛明記論が、井上「次善の策」として位置づけられ、知性と勇気のバックアップをいただいていることは、「立憲的改憲」の大きな力になると感じます。
そして、駒村圭吾先生。すべての対談の中で、時間も原稿も最長となりました。「立憲的改憲を批判的に吟味してください」という依頼に快くお応えいただいたわけですが、恐れを知らないお願いだったと、三時間を超える対談を終えた今なお緊張感が蘇ります。
現代において憲法改正に取り組むこと自体が、政治の権力基盤強化ツールになってはいないか、と問いかけがありました。改めて対談を読み返すと、この指摘は、安倍政権だけに向けられたものではなく、立憲民主党を含むすべての政党と私を含むすべての政治家に対して向けられた指摘であると受け止めています。
駒村先生から「立憲的改憲」に向けられた鋭い複数の矢は、「公」のために「無私」の立場で憲法議論に向き合っているか、その覚悟と準備と真摯さを吟味する矢でもありました。
そのテストに合格したかどうかいずれ尋ねてみたいのですが、そのタイミングはさらに研鑽を積んだ後へと今しばらく先送りしたいと思います。